黄昏のクレッシェンド
蜂蜜色の村に別れを告げ、二人は帰路についた。朔夜が約束した「遠回り」のルートは、コッツウォルズの丘陵地帯を貫く、なだらかな尾根沿いの道だった。
西に傾き始めた太陽が、広大な牧草地を黄金色の海へと変えていく。ハヤブサがその光の海を切り裂いて進むたび、二人の影は長く、深く、アスファルトの上に伸びていった。
「サクヤ、見て……! 空が、燃えているみたい」
インカムから流れるアリスの声に、これまでにない高揚が混じっていた。
彼女は朔夜の腰をしっかりと掴み、ヘルメットを彼の肩に預けるようにして横に身を乗り出した。流れていく黄金色の世界。それは、ロンドンの閉ざされたガレージや、怪異との戦いで血の匂いが漂う夜とは対極にある、圧倒的な「生の輝き」だった。
朔夜はスロットルをわずかに戻し、エンジンを「歌わせる」領域でキープした。
四気筒の爆ぜる音が、丘に反響して厚みを増していく。行きの「穏やかな旋律」とは異なり、帰りのハヤブサはどこか誇らしげで、力強い中低音を奏でていた。それは、アリスの期待に応えようとする、朔夜の無意識の「昂ぶり」が音となって現れたものだった。
丘の頂に差し掛かったとき、朔夜はハヤブサを路肩に止めた。
エンジンを切ると、辺りには遮るもののない風の音だけが吹き抜けた。視界の端から端まで広がる、琥珀色の地平線。
「サクヤ、聴こえる……? 風が丘を駆け上がって、草たちが一斉にざわめく音。……凄いわ、こんなに大きな音なのに、ちっとも痛くない。むしろ、もっと聴いていたいくらい……」
アリスがヘルメットを脱ぎ、風に髪をなびかせながら空を仰いだ。
彼女の特異な聴覚は、この広大な自然の営みを、壮大なオーケストラとして受け止めていた。普段、人混みや怪異の不協和音に神経を削り取られている彼女にとって、この「正しい音の洪水」は、魂を洗い流す清烈な水のようだった。
「……お前の耳なら、そう聴こえるだろうと思ったよ」
朔夜はバイクに腰掛けたまま、遠くの街明かりが灯り始めた地平線を見つめていた。
風を浴びて微笑むアリスの横顔は、あまりにも美しく、そしてどこか遠い。
彼女の人生には、これまでも、そしてこれからも、多くの人々が関わっていくのだろう。自分のような、異端の術を抱えて海を渡ってきた男が、彼女の世界の「一番」になれる確信なんて、どこにもなかった。彼女が聴いている広大な音楽の中で、自分の刻む鼓動など、ほんの一音に過ぎないのかもしれない。
それでも。
(……この時間が、いつまでも続いてほしい)
そう願ってしまう自分に、朔夜は小さく呆れていた。
戦うための力でもなく、血筋を証明する術でもなく。ただ、こうして彼女を乗せ、彼女が笑える場所まで走るためだけに、自分のハヤブサを鳴らしていたい。そんな、これまでの人生で一度も抱いたことのない、静かで、しかし執着に近い願いが胸の奥で熱を持っていた。
「……サクヤ?」
不意に、アリスが朔夜の隣に歩み寄り、そのライディングジャケットの袖を小さく掴んだ。
彼女は、言葉にならない朔夜の心の揺らぎを、風の音の隙間から見つけ出したようだった。
「……次は、どこへ行こうか」
朔夜の口から漏れた言葉に、アリスは一瞬驚いたように目を見開き、そして、誰にも向けたことのないような、深みのある笑みを浮かべた。
(……この音を、ずっと追いかけていきたい)
アリスにとって、朔夜の背中から伝わる心拍と、彼が操る機械の音は、もはや単なる「安らぎ」を越えていた。
不協和音に満ちた世界で、彼だけが、彼女を壊さないように、彼女と共に歩めるように、細心の注意を払って音を紡いでくれる。その不器用なほど誠実な響きこそが、今のアリスにとって、世界で最も信頼に値する「主旋律」だった。
「……ええ。約束よ、サクヤ。……あなたの奏でる音の隣なら、私はどこまでだって行ける気がするの」
アリスは満足げに微笑むと、再びハヤブサのタンデムシートに身を預け、今度は少しだけ、力を込めてその腰を抱きしめた。
朔夜がセルを回すと、ハヤブサは夜の帳が降り始めたロンドンへ向けて、祝福のような咆哮を上げた。
テールランプの赤い光を引いて、銀色の猛禽が夜へと溶け込んでいく。
二人の間に流れる空気は、もはや言葉を必要としないほど、温かで、重厚な和音を奏でていた。




