蜂蜜色の午後と、止まった時計
丘を下りきった先、二人が辿り着いたのは「バイブリー」――かつてウィリアム・モリスが『英国で最も美しい村』と称えた、古い石造りの村だった。
ハヤブサを村の外れの空き地に停め、エンジンを切る。パキッ、キン、という金属が冷えていく収縮音が、周囲の静寂に溶け込んでいった。
「……着いたぞ。ここが、お前の言っていた『本当の景色』の入り口だ」
朔夜がヘルメットを脱ぎ、乱れた髪を無造作にかき上げる。アリスもまた、少し火照った顔でシートから降り立ち、目の前に広がる光景に息を呑んだ。
そこには、十三世紀から変わらぬ姿で佇む「アーリントン・ロウ」の古いコテージ群が並んでいた。蜂蜜色のコッツウォルズ・ストーンで造られた家々は、初夏の太陽を浴びて、まるで村全体が暖かな熱を帯びているかのように琥珀色に輝いている。
「……信じられない。絵本の中に迷い込んだみたい。それに、音が……街の音と全然違う」
アリスはゆっくりと歩き出し、古い石垣にそそぐ陽光に目を細めた。
ロンドンにあるような、鉄とコンクリートが発する冷たく鋭い反射音ではない。土と石が、何百年もの時間をかけて吸い込んできた記憶が、風の音と共に柔らかく反響している。彼女の耳には、そのすべてが優しく穏やかな低音の合唱のように聞こえていた。
普段、あまりにも鋭すぎるその耳は、望まずとも街の悪意や怪異が放つ不協和音を拾い上げてしまう。彼女にとって、この世界の「音」は時に暴力となって神経を削るものだったが、ここにあるのは、彼女の魂を侵食しない、純粋で無垢な「沈黙の響き」だった。
「サクヤ、あそこの川のほとりに行きましょう。あそこなら、とてもいい音が聞こえそう」
アリスが指差したのは、村の中央を流れるコルン川のほとりだった。澄み渡った水が、揺れる水草の間を縫ってサラサラと流れている。
二人は川沿いのベンチに腰を下ろした。アリスは大切そうに抱えてきたバスケットを開き、中からワックスペーパーに包まれたサンドイッチと、銀色の魔法瓶を取り出した。
「はい、これはあなたの分。ローストビーフとホースラディッシュのサンドイッチよ。……今朝、少し早起きして作ったの」
「……わざわざ用意したのか。言っておくが、俺は味にはうるさいぞ」
文句を言いながらも、朔夜は差し出されたサンドイッチを口に運んだ。ホースラディッシュのピリッとした辛みが、ツーリングの心地よい疲労感に染み渡る。
「……悪くない。いや、その辺のカフェよりはマシだな」
「ふふ、素直じゃないわね。でも、美味しいって聞こえたわ。あなたの噛むリズムが、とても楽しそうだったもの」
アリスは自分の分のサンドイッチを小さく頬張りながら、魔法瓶から温かい紅茶をカップに注いだ。アールグレイの香りが、草花の匂いと混じり合って鼻腔をくすぐる。
「ねえ、サクヤ。……さっき走っている時、私、ずっと考えていたの」
アリスがカップを両手で包み、遠くを見つめる。
「あなたのハヤブサ、あんなに大きくて速いのに、どうしてあんなに優しく鳴るのかしらって。……今日、あなたが私のために、ずっと無理をさせないように走ってくれていたこと。耳じゃなくて、背中から伝わってきたわ」
朔夜は返事に窮し、残りのサンドイッチを強引に口に押し込んだ。
ただの移動手段。ただの機械。そう自分に言い聞かせ、効率よく走らせることだけを考えてきたはずだった。だが、今の彼は、自分の指先ひとつ、視線ひとつが、後ろにいるこの女性の世界を彩っていることを自覚せずにはいられなかった。
「……バイクってのは、乗り手次第でどうにでもなる。お前が変なところで騒ぐから、機嫌を損ねないように扱っただけだ」
「あら。だったら、私、もっと騒いでもいいのかしら? そうすれば、もっと優しい音が聴けるかもしれないもの」
アリスがいたずらっぽく微笑み、朔夜の顔を覗き込む。
蜂蜜色の光に照らされた彼女の瞳は、どんな宝石よりも澄んで見えた。朔夜はわずかに顔を赤らめ、誤魔化すように空になった魔法瓶を受け取った。
「……もう一杯あるなら、よこせ。……帰りは、少しだけ遠回りしてやる。お前がまだ聴いたことのない、丘の上の風の音を教えてやるよ」
「……ええ! 約束よ、サクヤ」
二人の距離は、まだ、指が触れ合うほどではない。
けれど、蜂蜜色の夕暮れが近づく村の中で、二人の呼吸はハヤブサのアイドリングが重なり合うように、静かに、確実に共鳴し始めていた。




