風の旋律と緑の隧道
高速道路を降り、なだらかな丘陵地帯が続くA40号線へと進路を取る頃には、朝の霧はすっかり晴れ、初夏の眩い日差しが草原を鮮やかに照らし出していた。
ロンドン中心部の喧騒とは切り離された、どこまでも続く牧歌的な風景。ハヤブサが滑り込んだのは、樹齢数百年のブナの巨木が両脇を固め、空を覆い尽くす「緑のトンネル」だった。枝葉の隙間から零れる木漏れ日が、銀色のカウルに万華鏡のような光の粒を描き、目まぐるしく背後へと流れていく。
「……ねえ、サクヤ。聴いて!」
インカム越しに聞こえるアリスの声が、幼い少女のように弾んでいた。
彼女の鋭すぎる聴覚は、タイヤがアスファルトを噛み締める規則正しい摩擦音や、シリンダー内で爆ぜる滑らかな点火音の中に、周囲の自然が放つ静かな共鳴を聴き取っていた。
「この子の歌い方、森に入ってからもっと優しくなったわ。エンジンの響きの中に、風が抜ける音と、土の匂いが溶け込んでいるみたい……。まるで、景色に合わせて自分が歌うべき旋律を選んでいるような、そんな素敵な音」
「……音が、自分からだと?」
朔夜はヘルメットの中で、苦笑に近い笑みを浮かべた。
アリスが「バイクが自ら奏でている」と感じているその変化は、すべて朔夜の指先が作り出しているものだった。
タンデムシートに座る彼女が、コーナリングの重力で不安を感じないよう、彼はいつも以上に繊細にクラッチを操り、ショックを殺した丁寧なギアチェンジを繰り返していた。加速するときは身体が置いていかれないよう穏やかにトルクを乗せ、減速するときは前のめりにならないよう、リアブレーキを多用して車体を水平に保つ。
それは、ライダーとしてのエゴを捨て、後ろに乗る者の「心地よさ」だけを追求した、無言の調律だった。
「……機械なんだから、正しく扱えば機嫌よく鳴る。それだけだ」
ぶっきらぼうに応えながらも、朔夜は左手のレバーを握る力を微調整し、さらに滑らかなラインを描いていく。
ふと、腰に回されたアリスの手の感触が、出発したときよりも自然に、そして深く自分に預けられていることに気づいた。彼女はもはや、振り落とされないためにしがみついているのではない。ハヤブサの、そして朔夜の動きに自分の身体を委ね、一体となって風を楽しんでいるのだ。
やがて道はさらに細くなり、コッツウォルズ特有の「ドライストーンウォール(空積みの石垣)」が続く小径へと変わった。
石垣に跳ね返る排気音は、低く、温かみのある響きとなって二人の耳に届く。
「サクヤの背中、さっきからずっと温かいわ」
不意に放たれたアリスの言葉に、朔夜は一瞬、スロットルを握る手を緩めそうになった。
「……エンジンの熱が伝わってるだけだろ。冬用のライナーも入れてるしな」
「ふふ、そうね。でも、なんだかそれだけじゃない気がするの。……この音を聴いていると、あなたが私に『大丈夫だよ』って言いながら、ゆっくり歩いてくれているみたいな……そんな安心感が伝わってくるわ」
「……考えすぎだ。お前は耳が良すぎるんだよ」
朔夜は視線を前方に固定し、わざとらしくギアを上げた。
加速した風がヘルメットを叩く。だが、インカムを通じて聞こえるアリスの柔らかな笑い声は、風の音よりも鮮明に、彼の胸の奥へと滑り込んできた。
丘を越えた先、朝日に輝く蜂蜜色の石造りの村が、ようやくその姿を現した。
そこには、ロンドンの煤けた日常では決して味わえない、琥珀色の静寂が二人を待っていた。




