朝靄を切り裂く鼓動
日曜日の午前五時。ロンドンの街が深い眠りから覚める前、ベーカー街のガレージには、静謐だが力強い「儀式」の気配が満ちていた。
前夜、朔夜は一晩をかけてハヤブサを「日常」へと戻していた。先日の激闘で酷使した『真鍮の歯車』と術式ユニットはすべて取り外され、オイル汚れを丁寧に拭き取ったあとに、本来の純正パーツへと戻されている。それは、怪異を討つための「兵装」から、一人のライダーが愛する「旅の相棒」へと立ち戻るための、不可欠な回帰であった。
「……よし。油圧も、火花の飛びも、本来の場所にあるな」
朔夜が独り言を呟き、ハヤブサの燃料タンクにそっと掌を添える。
術式を通した時の、あの脳を焼き切るような高周波の唸りはない。代わりに手のひらから伝わってくるのは、高性能な四気筒エンジンが静かに目覚めを待つ、密度の高い金属の質量感だった。
彼はサイドバッグを装着し、その中にアリスへの予備の防寒着と、簡易的な工具一式を詰め込んだ。今回の目的地は、ロンドンから北西へ約百五十キロメートル。英国の魂が眠ると称される、蜂蜜色の石灰岩で造られた古い村々――コッツウォルズだ。
ガレージの扉が開くと、ロンドンの冷たく湿った朝の空気が流れ込んできた。
そこには、いつものように厚手のウールコートに身を包んだアリスが立っていた。彼女の腕には、使い込まれた藤編みのバスケットが抱えられている。
「おはよう、サクヤ。……今日のガレージは、なんだかとても『柔らかい』音がするわ」
アリスがガレージの敷居を一歩踏み出し、耳を澄ませる。彼女の鋭敏すぎる聴覚は、オイルがエンジン内部を潤滑する微かな流動音や、金属が冷えて収縮する際の静かな「チッ」という音までもを捉えていた。
「術式は全部外した。今のこいつは、ただの重いバイクだ。……なんだ、そのバスケットは。ピクニックにでも行くつもりか」
「ええ、そのつもりよ。中身は秘密だけど、あなたの分もちゃんと入っているわ。……ねえ、今日は本当に『戦い』はないのよね?」
アリスの瞳には、期待と、少しばかりの不安が混じっていた。先日の翡翠の森での出来事は、彼女にとって、美しい緑の風景が「ノイズの地獄」へと変わる恐怖の記憶でもあったからだ。
「……今日はただの散歩だ。あんな不協和音の中に、お前を二度も連れて行くつもりはねえよ。さあ、乗れ。日が昇りきる前にロンドンを抜けるぞ」
朔夜はヘルメットを被り、バイザーを下ろした。アリスが慣れた動作で後部座席に跨り、朔夜の腰に細い腕を回す。彼女の身体が密着した瞬間、朔夜は無意識に背筋を伸ばし、彼女の体重と重心を全身で受け止めた。タンデム(二人乗り)は、ライダーにとって一人の時とは全く異なる「リズム」を要求される。加速、制動、そしてコーナリングのすべてにおいて、後ろにいる者の呼吸を感じ取らなければならない。
セルモーターが回り、重厚な排気音がガレージの壁に反響する。
ドォォォン……。
それは、空気を震わせる衝撃波ではなく、大地に根ざしたような、深い安らぎを伴う重低音だった。
「……素敵。この子の心臓、今日はとても穏やかに笑ってるみたい」
アリスが背中で呟く。彼女にとってバイクの排気音は、もはや単なる騒音ではなく、自分をどこかへ連れて行ってくれる巨大な生き物の「声」となっていた。
ハヤブサはベーカー街の石畳を静かに滑り出した。
まだ人影のないロンドンの中心部。街灯が朝霧の中にオレンジ色の輪を描き、濡れた路面が銀色のカウルを鏡のように映し出す。信号待ちのたびに、朔夜はバックミラー越しにアリスの様子を確認した。彼女が寒さに震えていないか、ヘルメットのシールドが曇っていないか。
やがて、高速道路M40号線へのランプを駆け上がると、朔夜はゆっくりとスロットルを開いた。
ハヤブサの四つの気筒が、一斉に、かつ滑らかに回転を上げていく。加速に伴い、アリスの手が朔夜の腰を強く掴んだ。だが、それは恐怖によるものではなく、前方へと突き進むエネルギーの奔流を共に楽しもうとする、信頼の証だった。
「……行くぞ、アリス。今日は風の音だけを聴いてろ」
インカムから流れる朔夜の声は、いつになく穏やかだった。
朝霧を切り裂き、銀色の猛禽は加速する。
都会の煤けたコンクリートが後方へ流れ去り、視界の先には、朝焼けに染まり始めたイングランドの広大な緑が広がり始めていた。
それは、術式も印も必要としない、ただ二人と一台だけの、純粋な旋律の始まりだった。




