朝凪のハイゲイト
変電所を覆っていた不気味な蔦が枯れ落ち、本来の冷たいコンクリートの質感が戻ってきた。施設の緊急用ランプがオレンジ色に灯り、街へと続く送電網が再び正常なハム音を奏で始める。ロンドンの北の空に灯っていた不自然な緑の光は、もうどこにもなかった。
「……終わったな。お疲れさん」
朔夜がハヤブサを降り、ヘルメットを脱いでサイドスタンドを蹴り下ろす。アリスもしばらくの間、朔夜の背中に寄りかかったまま動けずにいたが、ようやく深く長い息を吐いて、地面に降り立った。
「……信じられない。あんなに騒がしかった森が、今はこんなに……静か」
アリスが森を見渡す。風に揺れる葉の音も、遠くで鳴く夜鳥の声も、今はただの自然な音として彼女の耳に届いていた。
「……おい、アリス。耳は大丈夫か」
朔夜がぶっきらぼうに尋ね、自分の水筒を差し出す。アリスはそれを受け取ると、少し驚いたように、そして嬉しそうに微笑んだ。
「……ええ。少しだけ、耳鳴りがするけど……。でも、不思議ね。森に入る前に聴いたあの歪んだ音が嘘みたい。……今は、風の音も、土の匂いも、この子の冷えていく金属の音も……全部が本来の場所に戻ったみたいに、澄んで聞こえるわ」
朔夜は視線を逸らし、グローブを外してハヤブサの燃料タンクにそっと掌を添えた。 塗装越しに伝わる微かなエンジンの鼓動を確かめ、機械が無理な過給から解放されたことを無言で確認する。
「……そりゃそうだろうな。あれだけデカい雷を落として、不協和音の元凶を根こそぎ焼いたんだ。……残ったのは、本来の音だけだ」
今回の戦いで、ハヤブサに組み込まれた「真鍮の歯車」と術式は、アリスの感覚と共鳴することで未知の出力を発揮した。それは、土御門の家柄を捨てて海を渡った朔夜が、この街でようやく見つけた「新しい術の形」のようでもあった。
「……帰りも遠回りか? 今なら、もう霧も出ていないし、走りやすいルートがあるが」
朔夜が問いかけると、アリスは首を横に振り、空を見上げた。東の空が、わずかに白み始めている。
「……いいえ。今日は、真っ直ぐ帰りましょう。もうすぐ、ベーカー街に朝が来るわ。街が起きる前の、あの真っ白な音が聴きたいの。……サクヤの、今のハヤブサの音と一緒に」
「……わかった。寝過ごして、調律の仕事に穴を空けるなよ」
朔夜は再びバイザーを下ろし、ハヤブサを静かに始動させた。エンジンは、いつもの、深く重厚な心拍音へと戻っている。
銀色の猛禽は、朝霧のハイゲイトを抜け、静まり返ったロンドンの中心部へと滑り出した。二人の背後には、ただ平穏な森の静寂が、どこまでも広がっていた。




