電子の檻と、翡翠の王
森の最深部、谷の底に鎮座するハイゲイト変電所は、すでに巨大な植物の要塞と化していた。無機質なコンクリートの壁面は太い蔦に締め上げられ、巨大なトランスからは緑色の光を放つ不気味な粘液が溢れ出している。
「……ひどい音。空気が、引き裂かれそう……」
ハヤブサを停め、アリスが両手で耳を覆った。彼女の鋭すぎる感性には、怪異が放つ磁場のノイズが、何千もの爪でガラスを引っ掻くような絶叫となって突き刺さっていた。
変電所の中央、巨大な送電ユニットの上に、それはいた。
翡翠色の角を持つ巨大な鹿の怪異――『ハイゲイトの主』。その角が微震するたび、周囲の磁場が狂い、本来は街へ届くはずの電気が呪詛へと書き換えられていく。
「キィィィィィン……!」
主が放つ超高周波の壁。それは朔夜が練り上げようとする霊力さえもバラバラに分解し、術の発動を根本から阻害した。
「……チッ、磁場が荒れすぎてまともに印が組めねえ。……アリス!」
朔夜はハヤブサに跨ったまま、後部座席のアリスに鋭く声をかけた。
「耳を塞ぐな! ノイズを聴くんじゃない。俺の下で鳴ってるこの『音』を、あいつの不協和音の中に無理やりねじ込むための『隙間』を見つけろ!」
「……サクヤ、無茶よ! あんなに荒れ狂った音の中に……!」
「お前の耳なら、どんな嵐の中でも一音だけのズレを見抜けるはずだ! 俺を信じろ!」
アリスは唇を噛み、ゆっくりと耳から手を離した。
意識を尖らせ、脳を焼き切らんばかりのノイズの奔流へと踏み込む。怪異が放つ「キィィィン」という絶叫。その激しい揺らぎの中に、ほんの一瞬だけ、音が重なり合って打ち消し合う「空白」が存在することに気づいた。
(……そこ。あの一瞬だけ、音が弱くなる!)
アリスは、ハヤブサの振動と周囲のノイズがぶつかり合う一点を、音楽家としての直感で捉えた。
「今……! 三つ数えたら、一番高い音を叩きつけて!」
「――了解した。三……二……一……!」
アリスが「音の空白」を叫んだ瞬間、朔夜が霊力をスロットルと共に解き放った。
「土御門流・雷法――『雷鼓』!」
パパパパパンッ! と、ハヤブサの点火プラグから放たれた青白い雷光が、アリスの合図したタイミングと完璧に重なる。
ハヤブサの排気音が、怪異のノイズを真っ向から貫く一本の『芯』となり、バラバラに霧散していた朔夜の霊力がその音を道標にして一点に凝縮された。
「――お前の負けだ。土御門流・雷法奥義――『天霆』!」
ハヤブサを起点にした稲妻が、施設の金属骨格を伝って巨大な光の柱となり、翡翠色の主を真っ向から貫いた。
衝撃波が緑の霧を吹き飛ばし、呪詛にまみれていた変電所に、青白い浄化の光が満ち溢れる。
主は静かな光の粒子となって霧散し、頭上には本来の、星の輝く夜空が戻ってきた。
「……はぁ、はぁ……。……サクヤ、今のは……完璧なセッションだったわね……」
「……ああ。お前がリズムを外してたら、今頃俺たちはこの森の肥料になってたところだ」
朔夜がエンジンを切ると、そこには心地よい初夏の夜の静寂だけが残っていた。
ハヤブサのエンジン熱がカチ、カチと静かに冷める音が、勝利を祝う小さな拍手のように響いていた。




