イブニング・ハイウェイ ―残響の彼方へ―
ノース邸での騒動を終え、屋敷を辞去する頃には、ロンドンの空は深い藍色に染まり始めていた。
エリオット少年は、執事に付き添われながら玄関先まで見送りに来た。その表情は、数時間前とは見違えるほど晴れやかで、自らの手で車椅子の車輪を操る姿には、新しい主としての自覚が芽生えているようだった。
「……さて。直帰すれば三十分か。今の時間ならベーカー街もまだ混んでるな」
朔夜がハヤブサのグローブを嵌め直し、メーターの時計を確認する。
「ねえ、サクヤ。……少しだけ、遠回りして帰らない?」
後部座席に跨り、朔夜の腰に腕を回したアリスが、ヘルメット越しに提案した。
「遠回りか。……お前、あの地下書庫の不協和音をまともに浴びたんだぞ。さっさと帰って休んだ方がいいんじゃないのか」
「だからこそよ。あの場所の、重たくて湿った沈黙を耳から追い出したいの。……今の私の耳には、もっと速くて、もっと透き通った音が必要なのよ。……ダメ、かな?」
朔夜はバックミラー越しにアリスを見た。ヘルメットのシールド越しでも、彼女が何を求めているのかは伝わってきた。朔夜はふぅ、と小さく溜息をつき、視線を前方の道へと戻した。
「……分かった。メインロードは車が多くて排気ガス臭いだけだ。……北の丘を回るぞ。あそこなら、この時間でも風が死んでいない」
「ふふ、ありがとう。サクヤ」
朔夜はイグニッションを回した。ドォォォォンッ! という野太い咆哮が、静まり返った森に響き渡る。
ハヤブサがノース邸の鉄門を抜け、郊外のワインディング・ロードへと滑り出した。
夜の帳が下りた田舎道は、街灯もまばらだ。ハヤブサの強力なヘッドライトが、漆黒のアスファルトを鋭く照らし出す。
「……おい、しっかり捕まってろ。風に煽られても知らんぞ」
朔夜はそう言いながら、スロットルを僅かに開こうとして――その手を止めた。
いつもなら、ギアを上げ、瞬時に巡航速度まで加速させるところだ。だが、今の彼は、エンジンの回転数をあえて低く保ち、ハヤブサの巨体をゆったりと流すように走らせていた。
時速三十マイル。ハヤブサにとっては、歩いているも同然の微速だ。
アリスが朔夜の背中にぴたりと身を寄せている。その穏やかな鼓動と、ライダース越しに伝わる体温。地下書庫の冷気に晒された身体には、その温もりがひどく心地よかった。
(……このまま帰れば、またすぐに日常のノイズの中だ)
朔夜は心の中で独り言ちた。自分を拒絶した過去や、重苦しい記憶。それらが、アリスと一緒に風を受けている間だけは、どこか遠い世界の出来事のように思える。
彼は、無意識にスロットルを戻していた。
ハヤブサのエンジンが、急かすような咆哮ではなく、穏やかな心拍のようなリズムを刻む。
「サクヤ? ……なんだか、いつもよりゆっくりね」
アリスが不思議そうに、ヘルメットを朔夜の肩に預けて尋ねる。
「……夜の道は、路面の状況が見えにくいだけだ。こんなところで転倒して、お前の『耳』や『手』に傷でもつけたら、明日からの調律の仕事はどうするんだ」
「ふふ、心配してくれてるのね。……でも、本当はそれだけじゃないんでしょ?」
「……余計な音を拾うなと言ったはずだ」
朔夜はバイザーの奥で視線を泳がせた。
丘の頂に差し掛かった時、眼下には宝石を散りばめたようなロンドンの夜景が広がった。オレンジ色の街灯に縁取られたテムズ川が、夜の底で静かに輝いている。
朔夜は、さらに速度を落とした。
流れる景色を、一つひとつ記憶に刻みつけるように。
エリオットが言っていた「白紙の物語」があるとするなら、今、このゆっくりと進むハヤブサの振動こそが、彼にとっての最初の一行なのかもしれなかった。
「……悪くない夜だ」
呟いた言葉は、風にさらわれてアリスには届かなかったかもしれない。
だが、彼女を乗せた銀色の猛禽は、かつてないほど優しく、そして名残惜しそうに、夜のロンドンを泳いでいった。




