知恵の暴走と、銀の弾丸
開かれた扉の向こうに広がっていたのは、物理法則が崩壊した「言葉の深淵」だった。
天井の見えない巨大な縦穴に、螺旋状の書架が無限に続き、そこから溢れ出した数百万ものページが、猛吹雪のように空中で渦巻いている。ページの一枚一枚が刃のように鋭く、高速で回転しながら、侵入者を拒絶するように空間を切り刻んでいた。
「……これが、僕の家の、本当の姿……」
車椅子のエリオットは、その圧倒的な知識の濁流に圧倒され、ただ立ち尽くすしかなかった。
「……いいか、お坊ちゃん。ここから先は、俺の仕事だ」
朔夜がハヤブサをゆっくりと前進させる。タイヤが床に広がるインクの海を割り、不気味な飛沫を上げた。
「サクヤ、待って! 奥の方……何か、とてつもなく『不協和音』な奴がいるわ!」
アリスが朔夜の背中を強く掴む。彼女の鋭い聴覚には、紙の擦れる音の裏側で、古びた獣が喉を鳴らすような、低く、湿った唸り声が聴こえていた。
「ああ。知識を喰らいすぎて、化け物になった『本の成れの果て』だな」
螺旋書架の最深部から、それは這い出してきた。
体長五メートルを超える、巨大な獅子の形をした怪物。しかし、その身体は毛皮ではなく、びっしりと貼り付いた「羊皮紙」で構成されている。尾は分厚い背表紙が連なり、眼球の代わりには、呪われた真理を記す紅いインクの文字が激しく点滅していた。
――『ビブリオ・レクス(書架の王)』。
かつてノース家の先祖たちが封じ込めてきた、全禁書の守護者にして、その具現。
「……グガァァァァァァッ!」
怪物が咆哮すると、その口から放たれた衝撃波が、数千の単語となって朔夜たちを襲う。それは「死」「服従」「忘却」といった強制的な言霊の暴力だった。
「――そんな文字、俺には読めねえな!」
朔夜が左手でハンドル下のスイッチを切り替える。ハヤブサのインジェクターが特殊な「霊的燃料」を吸い込み、排気音が一段と高く、鋭い金属音へと変化した。
「土御門流・転位術――『雷鳴』!」
ドォォォォンッ!
ハヤブサが垂直にそびえ立つ螺旋書架の壁面を、重力を無視して駆け上がり始めた。遠心力と霊的な吸着力を利用し、朔夜は垂直の壁を時速百キロ以上で疾走する。
「アリス、その音の『核』を教えろ! どこを叩けば、あいつの綴りは終わる!」
「……耳を澄ませて! 左の肩……三枚目のページの裏側! そこだけ、音が『空洞』になってるわ!」
アリスが風に煽られながらも、必死に指を指す。
朔夜は螺旋を駆け下りながら、怪物の背後に回り込んだ。ビブリオ・レクスは、自らの身体を構成するページを無数の矢に変えて放つ。
「チッ、しつこい奴だ」
朔夜はハヤブサをバンクさせ、紙の矢の雨をミリ単位ですり抜けていく。
「土御門流・破却印――『断章』!」
朔夜が右手を離し、空中で一気に三つの印を綴った。ハヤブサの加速Gによって引き絞られた彼の霊力が、銀色の弾丸となって指先から放たれる。
パァンッ! と、乾いた音が地下空洞に響いた。
霊力の弾丸は、アリスが指摘した「空洞」――怪物の核へと正確に撃ち込まれた。
「……グガッ……!? ギィ、アァァァァァッ!」
ビブリオ・レクスの身体から、一斉に文字が剥がれ落ちていく。綴じ合わされていた羊皮紙がバラバラになり、知識の魔獣はただの白紙の山へと還っていく。
朔夜はハヤブサを華麗にターンさせ、エリオットの目の前でぴたりと停止させた。
背後では、嵐のように舞っていたページが、雪のように静かに床へと降り積もっていく。
「……終わったぞ、お坊ちゃん。……これが、お前の家の『真実』だ」
朔夜がヘルメットを脱ぐと、汗ばんだ額に、数枚の真っ白な紙が舞い降りた。
エリオットは、呆然としながらも、そのうちの一枚を手に取った。そこには、何も書かれていない。
「……白紙? 何も……残っていないの?」
「いいや。これからお前が、新しい物語を書き込むための余白だ。……親父さんの知識に守られるのは、もう終わりなんだろ」
朔夜はぶっきらぼうにそう言うと、アリスに「降りるぞ」と声をかけた。
地下書庫を支配していた冷気は消え、そこにはただ、古い紙の穏やかな匂いだけが漂っていた。
「……ありがとう、サクヤ。……アリス。……僕、もう怖くないよ」
エリオットの瞳には、もう絶望の色はなかった。
彼は初めて、自分の手で車椅子の車輪を回し、書庫の奥へと進んでいった。




