ミューズの迷宮と最短の追跡
首無し騎士の鎌が、再び虚空を切り裂いた。
ガレージの狭い空間では、その長大な間合いは圧倒的な脅威となる。しかし、朔夜は眉ひとつ動かさない。彼は愛車のタンクから手を離すと、手中に収めた蓮真の符を、まるで使用説明書でも読むかのような無機質な手つきで指に挟んだ。
「エド、そのまま這って外へ出ろ。……邪魔だ」
冷徹な声が響くと同時に、朔夜の身体が動く。
騎士が次の攻撃に転じるコンマ数秒の隙――。彼はコンクリートの床を滑るように踏み込み、騎士の馬の懐へと潜り込んだ。
馬が前脚を上げ、蹄で朔夜の頭蓋を砕こうとする。だが、朔夜はそれを紙一重でかわし、馬の胸元へ符を叩きつけた。
「『急々如律令』――接続」
パァン、と乾いた破裂音が響き、青白い雷光がガレージ内を真っ白に染めた。
蓮真の符は、確かに未熟だ。しかし、土御門の血が直に描いたそれは、純粋ゆえの爆発力を秘めている。霊的なショックを受けた馬が大きくのけ反り、騎士の体勢が崩れる。
その隙に、朔夜は愛車のサイドスタンドを蹴り上げた。
セルモーターが力強く回り、一瞬でエンジンが目覚める。ガレージの壁に反響するリッターエンジンの咆哮は、もはや機械の音ではなく、怪異を威嚇する獣の唸り声に近い。
「仕事だ、相棒。最短で行くぞ」
朔夜はヘルメットを被る間も惜しみ、スマートフォンをハンドルマウントへ叩きつけた。
画面上の「霊的観測プラグイン」が、逃走を図ろうとする騎士の背後に、赤い輝跡を描き出す。騎士は自らの不利を悟ったのか、霧の中へと溶け込むようにガレージを飛び出し、入り組んだミューズの闇へと消えていく。
朔夜はスロットルを大きく開け、クラッチを繋いだ。
リアタイヤが石畳を激しく掻き、ガレージに残された廃油を撒き散らしながら、鉄の馬が発進する。
ベーカー街の裏路地は、初見の者にとっては迷宮そのものだ。
行き止まりに見える路地、人一人が通るのがやっとの狭い隙間。だが、朔夜のスマホ画面では、ロンドンの全地図と霊子追跡データが完璧に同期していた。
「……三つ先の角を右。その先のテラスハウスを抜ければ、大通りに出る前に先回りができる」
彼は伝統的な陰陽師のように、道端に結界を張って敵を待つような真似はしない。
時速六十キロ。この狭隘な路地では自殺行為に近い速度だが、朔夜はマシンの挙動を完全に支配し、レンガ造りの壁を掠めるような角度でバンクさせていく。
風が頬を切り裂き、霧がヘルメットに水滴を作る。その不快感すらも、集中力を高めるためのスパイスに変える。
前方に、影のような騎士の姿を捉えた。
騎士は交通ルールも物理法則も無視し、霧に乗りながら最短距離でセント・ジェームズ・パーク方面へ逃れようとしている。そこまで逃げられれば、観光客や深夜の通行人に紛れ、追跡は困難になる。
「逃がすか。……コストに見合わない」
朔夜は左手でハンドルを保持したまま、右手で懐から三枚の符を抜き放った。
彼はバイクを止めるつもりなど微塵もない。走行中の不安定な姿勢のまま、精神を一点に研ぎ澄ます。
「『土御門流・三極陣』」
放たれた符が、走行風を切り裂きながら騎士の周囲へと展開される。
三枚の符は空中で互いに共鳴し、目に見えない霊的な障壁を作り出した。不意を突かれた騎士の馬が、見えない壁に衝突したかのように大きくよろめく。
そこは、袋小路――デッドエンドだった。
朔夜はフロントブレーキを強く握り込み、リアタイヤをスライドさせながらマシンの向きを変えた。タイヤから上がる白煙と、焦げたゴムの匂いが、ロンドンの冷たい霧を塗り替えていく。
行き止まりの壁を背に、首無し騎士が鎌を構え直した。
朔夜はバイクから降りることなく、エンジンのアイドリング音を響かせながら、騎士を冷たく見据える。
「さて。これ以上時間をかけると、深夜手当の計算が複雑になる」
彼はハンドルにマウントされたスマホの画面をスワイプし、術式の出力を最大まで引き上げた。
蓮真の符が、マシンのヘッドライトの光を吸い込み、眩いばかりの黄金色に輝き始める。
「チェックメイトだ。消えろ、死神」
夜の帳に、エンジンの咆哮と、破魔の術式が交差する。
それが、ロンドンの裏側で繰り返される、朔夜の「日常」の終焉だった。




