オイルの匂いと死神の蹄
ロンドンの空は、いつだって不機嫌な灰色だ。
石畳を濡らす細かな霧雨は、傘を差すほどではないが、放っておけば体温と気力をじわじわと奪っていく。そんな湿り気を帯びた空気の中で、ベーカー街の裏路地――観光客がシャーロック・ホームズの面影を追って歩く華やかな表通りとは無縁の、薄暗いミューズ(裏路地)の一角に、土御門朔夜の「聖域」はあった。
かつては馬車庫や倉庫として使われていたのであろう、天井だけはやたらと高い極狭の賃貸物件。その一階、シャッターを閉め切ったガレージの中で、朔夜は一人、鉄の塊と向き合っていた。
カチ、カチ、と小気味よいラチェットの音が響く。
リッタークラスのスポーツバイク。その精悍なカウルを脱がされ、剥き出しになったエンジンは、鈍い銀色の光を放っている。朔夜は細長い指先で、オイルまみれになるのも厭わず、プラグの焼け具合を確かめ、チェーンの弛みをミリ単位で調整していく。
「……〇・五ミリ。これ以上は遊びが過ぎる」
独りごちる声は低く、抑揚がない。
彼にとって、この時間は一種の儀式だった。だがそれは、故郷・日本で嫌というほど叩き込まれた、古臭い陰陽道の儀式とは正反対のものだ。
土御門。
その姓は、日本の呪術界において重すぎる意味を持つ。安倍晴明の末裔、陰陽道の本家。血筋、伝統、しがらみ、そして「正当なる術者」としての振る舞い。
朔夜はそれらすべてを、一台のバイクと片道航空券に変えて捨て去った。
渡英して半年。彼はこのロンドンで、王立怪異対策局の「外部協力者」として日銭を稼いでいる。局の連中は、朔夜の家柄や術の深奥には興味がない。ただ、彼らが手に負えない「物理的なスピード」や「東洋の異質な理」が必要になった時だけ、高額な報酬を条件に彼を呼び出す。
「効率こそが正義だ」
朔夜は傍らに置いたスマートフォンを指先で弾いた。
画面には、局が支給した「霊的観測プラグイン」が起動しており、ロンドン市内の霊脈の乱れがリアルタイムでマッピングされている。だが、彼が同時に注視しているのは、その裏で動いている交通情報アプリと、週末の天気予報だった。
「土曜の夜明け、コッツウォルズ方面は晴れか。仕事が今夜中に片付けば、午前三時には出発できる……」
ヘルメットの中に閉じ込める自分の呼吸音。エンジンの燃焼室という、極めて科学的で論理的な「爆発」の連鎖。それだけが、この霧深い異郷の地で、朔夜の精神を摩耗から守っていた。
壁際に設置された簡素な棚には、一箱の段ボールが置かれている。
日本に残った弟の蓮真が、頼みもしないのに定期的に送りつけてくる小包だ。
中身はいつも、兄を案じる中学生らしい、どこか幼さと必死さが同居したラインナップだった。
賞味期限の怪しいインスタントのカップ麺、地元で評判の梅干し、そして「兄さん、イギリスは雨が多いって聞きました。風邪をひかないでください」という拙い字の手紙。
その手紙の端には、必ず数枚の符呪が同封されている。
土御門の正統な術を継ぐべく修行中の蓮真が、兄の身を守るために心血を注いで描いたものだ。
「……こんなもの、今の俺には必要ない」
朔夜は吐き捨てるように呟いたが、その手は無意識に、蓮真が描いた符の束を一番手に取りやすい位置に置いていた。
かつて日本で、自分の背中を追いかけ「兄さん、兄さん」と慕っていた弟。
すべてを捨てて国を出た自分を、今でも変わらずに「最強の陰陽師」だと信じている、愚かで愛おしい家族の欠片。
それを「非合理的だ」と切り捨てきれない自分への苛立ちを隠すように、朔夜は再びレンチを握り直した。
「……さて、仕上げだ」
朔夜がトルクレンチを手に取った、その時だった。
夜の静寂を切り裂くように、表の石畳を叩く乱暴な足音が近づいてくる。一つではない。逃げる足音と、それを追う「何か」の響き。
その「何か」が発する音は、生物のそれとは明らかに異なっていた。
硬い蹄が石を打つ音。しかし、そこには馬の吐息も、筋肉の軋みもない。ただ、凍てつくような冷気と、錆びた鉄が擦れ合うような嫌な残響だけが、壁を透過して伝わってくる。
「……チッ」
朔夜の眉間に深い皺が寄る。
作業はまだ、あと数分で終わるところだった。この「数分」の誤差が、プロの仕事においては致命的な違和感になる。
ドォォォォン!!
激しい衝撃と共に、ガレージのシャッターが内側へ向かって大きく歪んだ。
安物のアルミ製シャッターは、巨大な力によって紙細工のように引き裂かれる。
「サクヤ! 助けてくれ、サクヤ!!」
悲鳴を上げて転がり込んできたのは、ひょろりとした体格の男だった。
エド。局に情報を流して日銭を稼いでいる、この界隈の情報屋だ。彼は床にぶちまけられた廃油の受け皿に足を滑らせ、無様に転倒しながら朔夜の足元へ縋り付いた。
「追われてるんだ! 冗談じゃねえ、あんなの聞いてねえぞ! 首が……首がないんだよ!」
エドの背後。
引き裂かれたシャッターの向こう側、ロンドンの深い霧の中から、そいつはゆっくりと姿を現した。
漆黒の鎧に身を包み、首から上が欠落した騎士。
その手には、人の背丈ほどもある長大な鎌が握られている。騎士が跨る馬は、皮膚がなく、剥き出しの骨と腐肉の間から、青白い燐光を放っていた。
首無し騎士。
アイルランド伝承の死神が、なぜ今、ベーカー街の掃き溜めのような裏路地を闊歩しているのか。
騎士が鎌を真横に薙いだ。
ガレージの入り口付近にあった作業棚が、一瞬で真っ二つに両断される。長年かけて揃えた工具セットが、無残な音を立ててコンクリートの床に散らばった。
朔夜の視線が、床に転がったレンチから、ゆっくりと騎士へと移動する。
その瞳は、恐怖でも驚きでもなく、心底不快そうな「冷徹さ」に満ちていた。
「……おい、情報屋。一つ確認だ」
朔夜の声は、低く、そして驚くほど静かだった。
「こいつは、局の正式な依頼対象か?」
「あ、ああ! さっきスマホに通知が……緊急事態だって! 報酬は三倍出すってアビゲイルが言ってた!」
エドが震える手で自分のスマホを差し出す。
同時に、朔夜のハンドルマウントに固定されたスマホも、けたたましいアラート音を鳴らした。
画面には、王立怪異対策局からの「プライオリティA」の文字。
朔夜は短く息を吐き、手に持っていたトルクレンチを工具箱へ置いた。丁寧に、しかし迅速に。
「報酬三倍か。なら、壊されたシャッター代と、散らばった工具の洗浄代、それと――」
朔夜は愛車に歩み寄り、汚れ一つないタンクに優しく手を置いた。
「相棒」の塗装には、跳ねた火花によるものか、小さな、しかし確実な傷がついていた。
「……私の貴重な整備時間を奪った慰謝料。すべて経費で落させてもらう」
朔夜は壁の棚から、一束の符を抜き取った。
それは、蓮真が送ってきた「土御門」の銘が入った特級の呪符だ。
「どけ、エド。そこで震えていろ」
朔夜が一歩、前に踏み出す。
彼の手の中で、符が青白い火花を散らし始めた。現代のロンドンに、古の日本の呪術が展開される。
「プロの聖域を荒らした罪、その身がないなら、魂で払ってもらうぞ」
霧の中から、騎士の馬が猛然と嘶いた。実体のない咆哮が、ガレージの空気を震わせる。
『神速の陰陽師』、土御門朔夜の、最も「不機嫌」な仕事が始まった。




