そして熱意は伝播する
「エレーナ、お願いだから離して! 本当に、本当にお願いだから……!」
京洛祇園高校の、新緑が目に眩しい中庭。
クラス中の注目の的――いや、もはや全校生徒に「蓮真様の懐に特攻した金髪美少女」として噂が広まる中、蓮真はエレーナに引きずられるようにして、校舎裏のベンチへとたどり着いた。
ようやく解放された蓮真は、肩で息をしながら、爆発した心臓を鎮めるように自分の胸を押さえた。その顔は、茹で上がったタコのように真っ赤だ。だが、その赤みは単なる困惑だけではない。
(……なんだ、今の。あんなに……あんなに柔らかくて、温かかったっけ)
腕の中に残る、エレーナの確かな質量。三年前、中学一年生の夏に無理やり連絡先を奪い取られたあの時の「わんぱくな少女」の面影は、もうどこにもない。しなやかな肢体、ふわりと香るロンドンの洗練された石鹸の匂い、そして自分を射抜くようなサファイアの瞳。
蓮真は、自分の「安全装置」が機能不全に陥っていることを自覚せざるを得なかった。
「……エレーナ。君、三年間でさらに加速してない? ここは由緒正しい京洛祇園高校なんだよ。祇園の神々だって今朝の乱入劇を見たら腰を抜かすよ……」
「あら、蓮真様。日本の神様は八百万もいるんでしょ? そのうちの何柱かは、きっと今の私のスピードを褒めてくれてるわ」
エレーナは少しも悪びれる様子なく、隣に腰を下ろすと、当然のような顔をして蓮真の腕を再びホールドした。三年前、関空で強引にスマートフォンをひったくられた時よりも、その指先には「欲しいものは掴み取る」という強い意志が宿っている。
「いい、蓮真様。さっきの教室、あそこには『不快な静寂』が満ちていたわ。みんな蓮真様を腫れ物みたいに扱って、遠くから眺めてるだけ。あんなのは『調和』じゃない、ただの『停滞』よ」
「それが僕の望んでいた平和なんだけどな……」
「平和と停滞を履き違えちゃダメ。アリス姉様が言ってたわ。『男の優しさは、女がアクセルを踏むための舗装道路でしかない』って」
蓮真は言葉を失った。エレーナの真っ直ぐな視線に、自分の「逃げ」を見透かされたような気がしたのだ。同時に、自分をここまで真っ向から求めてくれる彼女の熱量に、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
その時、エレーナのスマートフォンがバイブレーションを鳴らした。ロンドンからのビデオ通話。相手は言わずもがな、愛の師匠・アリスだ。
「あ、アリス姉様! ちょうど今、蓮真様にファーストアタックを決めたところよ!」
エレーナがビデオ通話を開始すると、画面にはロンドンの瀟洒なリビングが映し出された。
画面の向こうのエレーナに向かって手を振るアリス。そして、その横で三歳の長女・ミヤビと一歳の次女・マリーを抱っこしながら、苦笑いを浮かべてこちらを見守る朔夜の姿があった。アリスと結婚して三年。そこにはかつて『氷の死神』と恐れられた時の面影はすっかり消え、少し柔らかになった雰囲気で完全に牙を抜かれた朔夜の姿が映っている。
『いいわよエレーナ、その調子。困惑は関心の第一歩。今のうちに、蓮真君の「安全装置」を根こそぎ破壊するのよ。サクヤも、私の真っ直ぐな言葉に落とされたんだから』
「ちょ、兄さん! 止めてよ! エレーナが、僕の知ってるエレーナじゃなくなってるんだ!」
蓮真が画面に向かって悲鳴を上げる。朔夜はアリスとミヤビに左右から抱きつかれ、マリーに頬をつつかれながら、弟を憐れむように、しかしどこか懐かしむような眼差しで口を開いた。
『……蓮真、すまない。エレーナはこの三年間、アリスの情熱的な振る舞いを間近で見て育ってしまった。彼女にとっての「普通」は、お前の想像を超える速度なんだ。……だが蓮真、お前、案外嫌そうではないな?』
「えっ!? そ、そんなこと……!」
不意を突かれ、蓮真の声が裏返る。アリスが不敵な笑みを浮かべた。
『あら、いい反応ね。蓮真君、エレーナは三年前から一度もブレーキをかけていないのよ。あなたというゴールに向かって、ずっとフルスロットル。その熱量に、あなたの「調和」がどこまで耐えられるかしら?』
そう言いつつ、朔夜の首筋に腕を回し、頬ずりするアリス。長女のミヤビが朔夜の所有権を主張するも、『あら、ダメよ。サクヤはずっと前から私のものなんだから』と大人気なく娘と張り合って朔夜を取り合う。そんなアリスのお腹は少しふっくらとしており、既に朔夜との間に三人目の子を宿している様子が窺える。そして、そんなアリスのラブラブ幸せオーラが、エレーナの蓮真に対する恋心をさらに焚き付けるのであった。
画面が切れると、再び静寂が訪れる。エレーナは勝利を確信したような顔で蓮真を覗き込んだ。
「聞いた? 蓮真様。私の速度に、もう逃げ場はないわよ」
「……はぁ。兄さん、他人事みたいに言ってるけど、これ、完全に兄さんの家の教育方針の結果だよね……」
蓮真は再び天を仰いだ。だが、その横顔を見たエレーナは気づいていた。蓮真の耳の付け根が、隠しきれないほど真っ赤に染まっていることに。
「……でも、エレーナ。これだけは言わせて。僕、一応これでも土御門の跡取りなんだ。あんまり騒ぎすぎると、家の守護妖怪たちが黙ってないよ?」
「望むところよ! 妖怪だろうが人間だろうが、蓮真様の隣にふさわしいのは私だって、神速で証明してあげる!」
「……君、本当に強くなったね」
蓮真の口から、ふと零れた言葉。それは困惑の中にも、確かな「意識」と「賞賛」が混じっていた。
エレーナ・ノーウッド。アリスから受け継いだ彼女の恋のギアは、まだセカンドに入ったばかり。だが、蓮真の心という名のエンジンは、すでに制御不能なほどの回転数を上げ始めていた。




