ロンドンからの再会の調べ
――三年後、五月の連休が明けたばかりの日本・近畿にて。
関西国際空港から古都へとひた走る特急『はるか』の車内で、エレーナ・ノーウッドは不敵な笑みを浮かべていた。
窓外に広がる日本の景色は、彼女にとって「懐かしい」ものではない。「獲物が住む場所」だ。
生まれも育ちもロンドン。そんな彼女が、三年前の夏、義兄の朔夜と義姉のアリスの訪日に同行したあの日。そこで出会った土御門蓮真に、エレーナの心臓は文字通り「撃ち抜かれた」。
「三年前、空港で言ったわよね。……次は私が、蓮真様を迎えに行くって」
エレーナはスマートフォンを取り出し、メッセージアプリの画面を開いた。
一番上に固定されているのは、もちろん蓮真のアカウントだ。三年前の別れ際、関西国際空港のロビー。兄・朔夜の見送りに来た蓮真に対し、エレーナは「寂しい」なんて言葉は一言も口にしなかった。代わりに、彼のスマートフォンをひったくるように奪い、強引に自分のIDを叩き込んだのだ。
『これ、私の連絡先! 毎日メッセージ送るから、一秒以内に返信してね。しないと、ロンドンから呪いの歌を送信するから!』
そう言い捨てて飛行機に飛び乗ったあの日から、エレーナの攻勢は一日たりとも途絶えていない。
三年間、時差など無視して送り続けたメッセージ。自分の成長をこれでもかとアピールした自撮り写真。そして、画面越しに叩き込み続けた情熱。
だが、そんなデジタルな交流は、今日、この瞬間をもって終わりを告げる。
「画面越しに眺める日々は、もうおしまい。これからは二十四時間、蓮真様の隣は私が占有するの」
彼女はバッグから一冊の分厚いノート――アリス直伝の『愛の教典・極』を取り出し、ページをめくった。
そこには、三年前の時点で「一目惚れ」という最高速で走り始めた彼女を、さらに加速させるためのメソッドがびっしりと書き込まれている。
『いい、エレーナ。恋にブレーキなんて機能は必要ないの。相手が「まだ早い」なんて言ってきたら、それはあなたの速度が足りない証拠。相手が思考を停止するほどの神速で、懐の最深部まで突っ込むのよ』
アリスの教えは、エレーナの元来の気質と完璧に共鳴していた。
何しろ、エレーナには実績がある。三年前、京都で蓮真に一目惚れした瞬間、彼女は「この人が私の運命」と即断した。それ以来、彼女のベクトルは一ミリもブレることなく、ただ蓮真という一点に向けて収束し続けてきたのだ。
「日本の女の子たちは、きっと今も『王子様』なんて呼んで、遠くから眺めてるんでしょうね。……スローすぎてあくびが出るわ」
エレーナはノートを閉じると、網棚からキャリーケースを下ろした。
ジュニアハイスクール時代をロンドンで過ごしながらも、彼女の意識は常に日本の、京都の、土御門家の奥座敷にあった。
音に対する鋭敏な感性。怪異が発する不快なノイズを聞き分けるその才能も、すべては蓮真の隣に立つための「資格」として磨き上げてきたものだ。
「ターゲット、京都。ミッション、蓮真様の正妻の座奪取。……イグニッション、オン!」
京都駅に到着するチャイムが流れる。
ドアが開くと同時に、五月の陽光が彼女の金髪を黄金色に輝かせた。
エレーナ・ノーウッドは、ハイヒールの音をプラットフォームに力強く響かせながら、神速の一歩を踏み出した。
泣きじゃくるような殊勝な別れなど、彼女の辞書にはない。
あるのは、三年前から一度も緩めることなく踏み込み続けてきた、恋のフルスロットルだけだ。
「待っててね、蓮真様。今、あなたの平穏を壊しに行ってあげる!」
その瞳に宿る熱量は、古都の静寂を焼き尽くさんばかりに燃え上がっていた。
*****
京都、京洛祇園高校。
古都の景観に溶け込むような落ち着いた校舎は、その名に恥じぬ気品と、どこか厳格な空気を纏っていた。一学年A組。その教室もまた、入学から数週間が経ち、新しい生活に馴染み始めた生徒たちが作り出す、平穏で秩序ある「日常」の中にあった。
その「日常」の頂点に君臨しているのが、土御門蓮真である。
「おはよう、蓮真君。今日の歴史の課題、難しかったよね」
「おはよう。確かに、あの資料の読み解きは少し骨が折れたかな」
蓮真が微笑みながら答えるだけで、周囲の空気は春の陽だまりのように和らぐ。
彼は、陰陽道の総本山・土御門家の跡取り。その出自と、ジャ◯ーズのスカウトを辞退したという噂が納得できるほどの端正な容姿、そして何より誰にでも平等に接する「仏の蓮真」と称されるほどの優しさ。
女子生徒たちにとって、彼は「憧れの王子様」であり、同時に決して汚してはならない「聖域」でもあった。彼女たちは彼を遠巻きに眺め、適切な距離を保つ。それがこの京洛祇園高校一の名門クラス、A組が維持してきた美しい不協和音のない調べ――「調和」だった。
しかし、その「調和」は、校門をくぐった一人の金髪の少女によって、一瞬にして粉砕されることになる。
「……スロー。スローすぎるわ」
廊下の影。転校生として紹介されるのを待つエレーナ・ノーウッドは、教室から漏れ聞こえるその「静かなる崇拝」を感じ取り、呆れたように鼻を鳴らした。
エレーナの鋭い耳には、女子生徒たちが蓮真の周りに張り巡らせている「遠慮」や「建前」という名の、湿気たノイズが手に取るように聞こえていた。
(日本の女の子、奥ゆかしさを履き違えてるんじゃない? そんなにスピードを緩めてたら、目的地に着く前に日が暮れちゃうわよ)
エレーナの脳裏には、三年前の夏、関空ロビーでの光景が焼き付いている。
蓮真から強引にスマートフォンを奪い、IDをねじ込んだあの日。あの瞬間、彼女は確信したのだ。この人は、誰かが強引にブレーキを壊してあげなければ、一生その「調和」という名の檻から出てこないのだと。
(だったら、私がその役を引き受けてあげる)
担任の教師が教壇に立ち、「今日はロンドンからの転校生を紹介する」と口を開きかけた、その刹那。
エレーナは、担任が名前を呼ぶという「手続き」すら神速でスキップした。
「蓮真様、お待たせ!」
バンッ! という、重厚な扉が悲鳴を上げるような音とともに、エレーナが教室へと乱入した。
全生徒の視線が入り口に集中する。そこには、燃えるような金髪をなびかせ、凛としたサファイア色の瞳を輝かせる、一人の異国の美少女が立っていた。
「な、なんだ!?」「映画の撮影か?」
ざわめきが広がる中、エレーナは迷うことのない直進軌道を描いて、蓮真の席へと突進した。
教科書を広げて驚きに目を見開いている蓮真。その姿を捉えた瞬間、エレーナの心臓の回転数は一気にレッドゾーンへと跳ね上がる。
「エ、エレーナ!? なんで……」
「蓮真様! 会いたかった、この三年間、一秒たりとも忘れたことはないわ!」
蓮真が椅子を鳴らして立ち上がるのと同時に、エレーナは全力のまま彼の胸へと飛び込んだ。
「きゃああっ!?」という女子生徒たちの悲鳴が響き渡るが、エレーナには心地よい祝福の鐘の音にしか聞こえない。彼女は蓮真の細い腰に両腕を回し、これでもかと力を込めて、その体温を全身で享受した。
「蓮真様、三年前の約束、今日からここで続きを始めるわよ!」
「ちょ、エレーナ! 落ち着いて、ここは学校なんだ! みんな見てるから!」
「見ればいいじゃない! むしろ見なさい! 蓮真様の隣は、今日から私が完全に予約したんだから!」
蓮真は赤面し、エレーナを引き剥がそうとするが、彼女は強力な接着剤のように離れない。それどころか、彼の腕の中に収まることで感じる、三年前よりも逞しくなった肩の感触や、混じりけのない蓮真特有の香りに、エレーナの脳内ではアリス姉様の『愛の教典』が激しいドラムを叩き始めていた。
「いい、蓮真様。私が来たからには、もうあなたの人生に『ブレーキ』なんて言葉は必要ないわ。神速で、私と一緒に愛の果てまで突っ走ってもらうから!」
京洛祇園高校の静寂は、エレーナ・ノーウッドという「金色の嵐」によって、塵一つ残さず吹き飛ばされた。
呆然とするクラスメイト。顔を真っ赤にしてフリーズする蓮真。
その光景の中心で、エレーナは勝利を確信した。
彼女の乱入によって、蓮真の「平和な日常」という名の安全装置は、今、爆音を立てて粉々に砕け散ったのである。




