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神速の陰陽師 〜ロンドン事件簿〜  作者: 風花
最終章:エターナル・マリアージュ ―未来に続く誓い―
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独占欲の旋律(メロディ)、赤面の点火(イグニッション)

 リージェンツ運河の朝は、水路を取り巻く清冽な空気と、鳥たちの囀りから始まる。

 かつての鉄工所を改装したガレージでは、夜明けとともに金属が触れ合う規則的な音が響いていた。朔夜が、ハヤブサの足回りを最終チェックしている音だ。


「……サクヤ、おはよう。今日の鼓動は、一段と力強いわね」

 背後からかけられた、とろけるように甘い声。

 振り返るより早く、朔夜の背中に柔らかい重みがのしかかった。アリスだ。以前から恋人として甘え上手な彼女ではあったが、朔夜のプロポーズを受けてからの彼女は、もはや遠慮という言葉を辞書から抹消していた。

 アリスはツナギ姿の朔夜の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込む。

「ん……やっぱり落ち着く。サクヤの匂いと、オイルの混ざったこの香り。ねえ、こっち向いて?」

「おい、アリス……。今、チェーンのグリスを塗ってるところだって。お前、服に油がつくぞ」

 朔夜がたしなめるように振り返るが、それはアリスの思う壺だった。正面を向いた瞬間、アリスは朔夜の首に腕を絡め、その唇を深い接吻で塞いだ。

「んっ…………ア、リス……っ」

 これまで孤独に「調律師」として重責を担ってきたアリスにとって、朔夜は生まれて初めてできた、たった一人の恋人であり、人生を預ける唯一の夫だ。その渇望に似た愛情は、夫婦として暮らし始めたことで、歯止めが効かないほど濃密に膨れ上がっていた。

「……ぷはっ。ふふ、油なんて洗えば落ちるわ。それより、私をもっと補給して?」

 アリスは頬を赤らめながらも、熱を孕んだ瞳で朔夜を見つめ、今度は自分から何度も、何度も唇を重ねる。がっつりと深く、そして執拗に。指先で朔夜の頬をなぞり、その存在が夢ではないことを確かめるように、ベッタベタに甘く、溶け合うような時間を強引に作り出した。

「……お前なぁ。少しは落ち着け」

「落ち着いてるわよ。世界で一番安心できる場所にいるんだもの。ほら、サクヤの心拍数も、唇を重ねるたびに跳ね上がってる。可愛い……」

 アリスは朔夜の胸元に指を這わせ、その熱を愉しむようにしがみつく。朔夜は真っ赤になりながらも、その抱擁を拒絶できず、むしろ逃げられないようにアリスの腰を引き寄せ、彼女の甘い攻撃を全身で受け止めていた。


 その時、ガレージに容赦ないシャッター音が連続で響いた。

「はいはーい! 決定的瞬間、大収穫だよ! 蓮真様、見て! 今日のお姉様は一段と『攻め』だね! 唇へのチュー、がっつり10秒超えました! サクヤなんて、もう顔面から火が出る寸前だよ!」

 ガレージの隅、監視カメラの映像をリアルタイムで日本へ転送しているタブレットを掲げ、エレーナがニヤニヤと笑いながら実況していた。画面の中では、ビデオ通話が繋がったままの蓮真が、信じられないものを見るような目で固まっている。

『……兄さん。……いや、その。お義姉さんが甘えん坊なのはエレーナから聞いてたけど、そこまで……? あの、京都で「氷の死神」なんて呼ばれて恐れられてた兄さんが、そんな……デロデロに溶かされてるなんて……』

 画面越しに聞こえる蓮真の声は、困惑と、ほんの少しの兄への哀れみが混じっていた。

 それだけではない。蓮真の背後では白妙や雫、そして小鞠などの、京都にある土御門の屋敷に住まう妖怪たちが、画面を覗き込んで阿鼻叫喚の地獄絵図を繰り広げていた。


「ひえぇぇ! あの、目があっただけで魂を凍りつかせ、刈り取られそうな「氷の死神」が……! あんな、がっつり接吻されて骨抜きにされてるだなんて!」

「お祓いよ! 誰かつよーい結界を張って! あれは毒よ、猛毒よ! 見てるこっちの脳が溶ける!」

「あの朔夜が『お前との間に子供ができても……』なんて言った理由が分かったわ。あのおなご、魔性だわ……! あの鉄仮面を、完全に飼い慣らしてる!」


 土御門に住まう妖怪たちの絶叫が、ロンドンのガレージにまで漏れ聞こえてくる。

 朔夜は額に青筋を浮かべ、アリスを離さないまま(というか、さらに強く唇を寄せられながら)、エレーナに怒鳴り散らした。

「エレーナ! その端末を今すぐ叩き折れ! 蓮真、お前も見るな! 土御門の連中を画面から遠ざけろと言ってるだろ!」

「えー? 蓮真様も『兄さんの生存確認が必要だ』って言ってるもん。ね、お姉様?」

 エレーナに振られたアリスは、朔夜の腕の中から顔を上げ、カメラに向かって、これ以上ないほど甘く、そして「独占欲」に満ちた微笑みを浮かべた。

「ええ。蓮真くん、安心して。サクヤはとっても元気よ。……ちょっと私への『大好き』が溢れすぎて、オーバーヒートしそうになってるだけ。実家の皆さんも、もう怖がらなくていいわよ。これからは、この温かくて柔らかいサクヤが、私たちの『正解』なんだから」

 そう言うと、アリスは「私のサクヤ」であることを誇示するように、再び深々と朔夜の唇に吸い付いた。

『……お義姉さん、強烈すぎるよ……。兄さん、生きて日本に帰ってきてね……』

 画面の中の蓮真が、遠い目で呟く。


 かつて、家督や血筋という歪なシステムに縛られ、一方通行の恋に破れ、実家の中にすら自分の居場所など無いと絶望し、半ば捨てるように日本を飛び出した兄。その背中に漂っていたのは、どこにも辿り着けない「氷の死神」の寂寥感だった。

 だが今、生まれて初めての恋に溺れる妻に唇を奪われ、骨の髄まで甘やかされている兄の姿に、かつての面影は無い。ロンドンの片隅、オイルの匂いと少女の笑い声、そして愛する者の腕の中。そこが兄にとって、魂の底から望んでいた「真の居場所」なのだという事実に、弟としての畏怖を抱かざるを得なかった。


「……よし、エレーナ。通信を切れ。今すぐだ。……アリス、お前も。……朝飯にするぞ」

 真っ赤な顔のまま、強引に話を打ち切った朔夜だったが、アリスにベッタリと腕を絡められたまま、結局は彼女をエスコートするように階段へ向かった。

「……サクヤ、まだ鼓動が速いわ。もっと聴かせて? もっとチューして?」

「……うるせえ。お前のせいだろ」

「あーあ、また始まった。お茶淹れるの、手伝ってよね二人とも!」

 エレーナが呆れながらも、幸せそうに笑って二人の後を追う。

 リージェンツ運河に朝日が完全に昇り、三人の新しい一日が、また賑やかに――そして以前よりもずっとベッタベタに甘く、始まろうとしていた。


 そして、月日はあっという間に流れていき、三年後――。

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