未来に続く誓い
ガレージの室内には、真新しい畳の匂い――エレーナが日本にいる蓮真にねだって送らせた、置き畳の香りが微かに漂っている。
「サクヤ! 見て見て、蓮真様から届いたこのお茶、すっごくいい匂いだよ。ロンドンの硬水でも美味しく淹れられるように、蓮真様が特別にブレンドしてくれたんだって!」
二階のキッチンで、エレーナがはしゃいだ声を上げる。彼女は蓮真からお茶が届いて早々に、アリスから教わった手順でティーセットを並べていた。
「蓮真の野郎、相変わらずマメな真似を……。あいつも日本で余計な苦労してなきゃいいんだがな」
一階のガレージ。朔夜はハヤブサの傍らで、工具箱の整理をしながら独り言ちた。広大なスペースには、バイクだけでなく、ミニクーパーまでもが、不思議な調和を持って配置されている。
これまでは、いつ捨ててもいいような安宿の設備に囲まれていた。だが、今目の前にあるのは、自分たちが選び、自分たちが守り抜くと決めた、本物の「生活」の断片だ。
階段を下りてきたアリスが、朔夜の隣に腰を下ろした。彼女の手には、エレーナが淹れたばかりの湯気が立つ茶杯がある。
「……サクヤ、お疲れ様。ハヤブサも、なんだか嬉しそうね。エンジンの熱が、とても穏やかなリズムで冷えていっているわ」
「ああ。こいつもロンドンに帰って久々に動かしたが、特に問題なさそうだ……アリス、お前の耳はどうだ。この家の『音』は」
アリスは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
「……完璧よ。運河のせせらぎと、サクヤが工具を置く音……それから、エレーナの笑い声。これ以上ないくらい、正しい和音だわ」
二人は、しばし無言でその「音」を共有した。恋人になってからの日々に二人が求めていたのは、劇的な勝利でも強大な力でもなかった。ただ、一日の終わりに、お互いの存在を当たり前のように感じられる、こうした「安息」だった。
朔夜は、手にしていたウエスを置き、傍らに置かれたアリスの手をそっと包み込んだ。
「アリス。前に言った『一生隣で調律し続けろ』という言葉……あれは、その場の勢いじゃねえ。俺は、ここをお前との本当の家庭にしたいと思ってる」
アリスの肩が、微かに震えた。
「……ええ。分かっているわ。サクヤは、嘘をつかないもの」
「ロンドンでの生活がいつまで続くか、王立怪異対策局の連中がいつまた余計な仕事を放り込んでくるか、それは分からねえ。だが、どこにいても、俺が守るのはお前と、それからあの中学生のガキだ」
朔夜は、真っ直ぐにアリスの瞳を見つめた。
「ここで結婚しよう。エレーナが卒業して、また新しい家族が増えて……いつか俺たちが爺さん婆さんになっても、俺はこのガレージで、お前の聴く音を邪魔しねえように、静かにバイクを磨き続けてやる」
アリスの瞳から、一粒の涙がこぼれ落ち、朔夜の甲の上で弾けた。
「……ふふ、最高のプロポーズね。バイク磨きがセットなのが、いかにもあなたらしいわ」
アリスは朔夜の胸に顔を埋め、彼の力強い鼓動を耳に刻んだ。それは世界で一番愛しい、彼女だけの主旋律だった。
「ちょっとー! 二人で何いい雰囲気になってるの! お茶が冷めちゃうよ!」
階段の上から、エレーナが身を乗り出して二人を覗き込んでいる。その表情は、全てを察した上で、わざと茶化すような満面の笑みだった。
「お姉様、顔赤いよ! サクヤ、今の台詞、後でボイスレコーダーで再現してもらうからね。蓮真様にも聞かせてあげないと! きっと蓮真様、泣いて喜ぶよ!」
「おい、お前、いい加減にしろ……! 蓮真にまで吹き込むんじゃねえ!」
朔夜は照れ隠しに声を荒らげたが、その表情には隠しきれない幸福感が滲んでいた。離れて暮らす弟への、兄としての信頼と少しの照れくささ。それが今の朔夜の心のゆとりを表していた。
夜が更け、リージェンツ運河に深い静寂が訪れる。
プロポーズ後の最初の夜。三人は、日本から届いた茶を囲み、これからの生活について語り合った。ガレージには、月光を反射して銀色に輝くハヤブサと、その隣に寄り添うミニ・クーパー。
かつては孤独だった不器用な陰陽師と調律師、そして居場所を求めていた少女。バラバラだった旋律が、ロンドンの片隅にあるこのガレージで、一つの壮大な交響曲へと編み上げられていく。
窓の外では、運河のせせらぎが、新しい住人たちを歓迎するように優しくさざめいていた。
彼らの戦いは、これからも続くだろう。だが、もう迷うことはない。彼らには、帰るべき場所があり、守るべき「家族」がいるのだから。
ロンドンの霧の向こう側に、新しい夜明けの音が、確かに響き始めていた。




