ガレージの静寂とハヤブサ
アイランドブルーのミニクーパーが、ロンドン郊外にある朔夜たちの隠れ家に滑り込んだのは、街が深い霧に飲み込まれ始めた頃だった。
使い古されたリモコンを操作すると、重厚なガレージのシャッターが、乾いた金属音を立ててせり上がる。朔夜は慣れた手つきで車を定位置に収め、エンジンを切った。
「……着いた。ようやく、座席の上以外の場所で脚が伸ばせるな」
朔夜がドアを開けると、そこには主の帰還を静かに待っていた空間が広がっていた。
オイルと金属の混じり合った、独特の芳香。壁一面に整然と並べられたインチ工具と、幾多の戦いを経てきた符術の触媒たち。そして、ガレージの中央で一際鋭い威圧感を放っているのは、スズキ・GSX1300R――「ハヤブサ」だ。
「ハヤブサも、ずっと待ってたみたいね」
助手席から降りたアリスが、カバーの掛かった二輪のシルエットを見つめて微笑んだ。彼女の耳には、ガレージ全体が朔夜の帰還を喜ぶような、低く安定した「静寂の和音」が聴こえていた。
「サクヤ! 私、先にお家に入って蓮真様にメッセージ送ってくるね! 時差があるから、今送らないと!」
エレーナは車を降りるなり、蓮真のお守りを握りしめて居住スペースへと駆け上がっていった。
「あいつの『速度』は、時として俺の神速を凌駕するな」
朔夜は呆れたように呟きながらも、すぐに視線をハヤブサへと戻した。
彼は着替えもそこそこに、ハヤブサを覆っていた防塵カバーを丁寧に剥ぎ取った。現れたのは、一切の妥協なく磨き上げられた、重厚な銀色のボディ。霧の都のわずかな光を鈍く反射するその輝きは、まるで研ぎ澄まされた日本刀の刃を思わせる。朔夜は素手でそのタンクに触れ、金属の冷たさを確かめた。
「……バッテリーの電圧は問題なし。プラグの点火(火花)も、この感覚なら焼き付いてはいない」
朔夜は工具箱から一本のレンチを取り出すと、ハヤブサの各部を点検し始めた。それは、神速の陰陽師としての鋭利な感覚を取り戻すための、聖なる儀式にも似ていた。
アリスは、そんな彼の背中を見守りながら、ガレージの隅にある小さなキッチンでコーヒーを淹れ始めた。
「サクヤ、お疲れ様。……でも、あんまり根を詰めないで。あなたの調律は、もう十分完璧よ」
「完璧の定義を疑うのが、俺の仕事だ」
朔夜はアリスが差し出したコーヒーを片手で受け取り、一口啜った。
ふと、彼の視線がガレージのポスト受けから溢れ出している郵便物に止まった。
そこには、公共料金の督促状に混じって、一通だけ、異質な「音」を放つ封筒が混じっていた。
王立怪異対策局――通称「局」からの公的封筒。
朔夜がその封を切ると、アリスの表情がわずかに曇った。彼女の鋭い聴覚が、その紙束から漏れ出す不気味な不協和音を捉えたからだ。
「……サクヤ、何が書いてあるの?」
「『電子制御車両の集団暴走、およびデジタル領域における霊的汚染の拡大』。……どうやら、俺たちが日本でうどんを啜っている間に、ロンドンはさらに質の悪いゴミ溜めになったらしい」
朔夜は、内容を読み終える前にその紙を乱暴に折り畳んだ。
「休暇は終わりだ。……アリス、悪いが今夜は早めに休んでおけ。明日には、この街の『ノイズ』を最速で解体しなきゃならん」
朔夜はコーヒーを飲み干し、再びハヤブサのボルトにレンチを掛けた。
窓の外では、ロンドンの深い霧が、まるで何かを警告するようにガレージの扉を叩いていた。




