ヒースローの向かい風
十数時間のフライトを経て、旅客機の重厚な車輪がロンドン・ヒースロー空港の滑走路を叩いた。
機内の乾燥した空気から解放され、ハッチが開いた瞬間に流れ込んできたのは、日本の抜けるような夏空とは真逆の、湿り気を帯びた重い空気だった。
「……ようやく、肺がこの街の汚れを思い出したか」
入国審査を終えた朔夜は、到着ロビーの出口で大きく首を鳴らした。
視界の先には、灰色の雲が低く垂れ込め、霧と排気ガスが混ざり合ったロンドン特有の風景が広がっている。日本でリフレッシュした身体にはいささか毒々しいが、この不透明な世界こそが、神速の陰陽師・土御門朔夜という男が選んだ主戦場だった。
「エレーナ、大丈夫? 少し顔色が悪いけれど、長旅で疲れちゃったかしら」
アリスが、隣を歩くエレーナの肩を優しく抱く。
エレーナは、日本で蓮真から受け取った守護符を、移動中もずっと大切に握りしめていた。ロンドンの冷たい風に触れ、彼女はふと、遠く離れた日本の風景と、そこで修行に励む少年の姿を思い返す。
「……大丈夫。ちょっと、ロンドンの空気が冷たいなって思っただけ。でも、これがあるから全然平気!」
エレーナは、蓮真からもらった符を誇らしげに掲げ、それから自分のスマートフォンをぎゅっと握り直した。
「早くお家に帰って、蓮真様に『無事に着いたよ』って連絡しなきゃ。あっち、今夜中でしょ? 起きててくれるかな……」
「……お前、着くなり即、連絡先を有効活用するつもりか。向こうの時差も計算してやれよ」
朔夜が呆れたように横目で見たが、エレーナは「乙女心に時差なんて関係ないの!」と意気揚々に鼻を鳴らした。
一行は、一般のタクシー乗り場には向かわず、貨物ターミナルの指定された区画へと足を向けた。
そこには、日本から空輸されてきたばかりの、朔夜の愛車――鮮やかなアイランドブルーを纏ったミニクーパーが、主の到着を静かに待っていた。
「よし、液漏れも傷もなし。空輸業者は、仕事を選べばまともな奴もいるもんだな」
朔夜は、霧の中でさえその存在感を主張するアイランドブルーのボンネットを愛おしそうに撫で、ドアを開けた。
運転席に腰を下ろし、キーを回す。
クランキングの振動がシート越しに伝わり、エンジンが目覚めの咆哮を上げる。その「音」を聴いた瞬間、朔夜の瞳の奥から旅の疲れが消え、冷徹かつ鋭利な「陰陽師」としての光が戻った。
「サクヤ、その音……」
助手席に乗り込んだアリスが、ふと耳を澄ませる。
「ああ。日本の乾いた空気で回していた時とは、燃焼の響きが違う。この湿気が、逆にこのエンジンの調律には合ってる」
朔夜はミニをゆっくりと走らせ、空港のゲートを抜けてハイウェイへと合流した。
バックミラー越しに見えるエレーナは、蓮真へのメッセージを必死に打ち込みながら、時折窓の外を流れる灰色の街並みを見つめている。アリスは、朔夜のシフト操作の流れるようなリズムに身を任せ、深く座席に背を預けた。
日本の記憶は、もはや切ない感傷ではない。
蓮真の祈り。アリスとの和音。そして、エレーナの新しい目的。
それらすべてを車内に積み込み、アイランドブルーのミニは霧の都へと深く潜り込んでいく。
「アリス、エレーナ。……ここからは、ロンドン流のやり方だ。シートベルトはしっかり締めておけ」
朔夜がアクセルを踏み込むと、ミニは霧を鮮やかに切り裂く矢となって、自分たちの拠点である「家」へと加速した。




