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神速の陰陽師 〜ロンドン事件簿〜  作者: 風花
第二十三章:リターン・トゥ・フォグ ―霧の都の再起動(リブート)―
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関空、薄暮のテイクオフ

 関西国際空港の国際線出発ロビーは、夕刻の重たい陽光を巨大なガラス壁で受け止め、オレンジ色に燃え上がっていた。

 チェックインカウンターの喧騒、免税店の華やかな匂い、そして別れを惜しむ旅人たちの湿った空気。土御門朔夜は、そのすべてを「非合理的だ」と一蹴するように、無機質なタイルを硬いブーツの踵で鳴らして歩いていた。

「……やっと湿気とおさらばだ。日本の夏は、エンジンの冷却効率も人間の忍耐力も削りすぎる」

 朔夜はそう毒づきながら、預け荷物となった愛車・ミニクーパーの貨物伝票を、使い古された革ジャケットのポケットへねじ込んだ。


「……兄さん、本当に行ってしまうのですね」

 背後から届いたのは、吹き抜けのロビーに溶けてしまいそうなほど、細く、透明な声だった。

 土御門蓮真。

 朔夜の実弟であり、土御門の家名を背負って日本に残る、美しき天才児。

 端正な顔立ちと、兄への一途な敬愛を宿した瞳。その周囲には、実家で見せたような妖怪たちの騒がしい取り巻きはいない。だが、彼が纏う清廉な霊力の波紋は、空港という無機質な空間において、一際異質な存在感を放っていた。

「仕事だ。言っただろ。それに、ロンドンには俺を待ってる相棒ハヤブサがある」

 朔夜は振り返りもせず、ぶっきらぼうに答えた。

「お前は実家で、せいぜいあの古臭い術式の『調律』でもしてろ。……ただし、無理はするな。お前の出力は、お前の身体にはまだ重すぎる。……お前は親を心配させるなよ」

 そんな兄弟の静かなやり取りを、少し離れた場所で、獲物を狙う鷹のような鋭い目で見守っていた少女がいた。

 エレーナである。

 彼女にとって、土御門の実家での滞在は、文字通り「妖怪大戦争」だった。蓮真を独占しようとする古参の妖怪たち、彼を愛でることに命をかける座敷童や狐火の群れ。その鉄壁のガードを前に、同世代であるエレーナは、ただ遠くから蓮真の横顔を眺めることしかできなかったのだ。

(……今しかない。今、ここで決めなきゃ、女が廃る!)

 エレーナは、アリスが止める間もなく、弾かれたように走り出した。


「――蓮真様!」

 エレーナの叫びに、蓮真は驚いたように肩を震わせた。

「エレーナ、さん……?」

 エレーナは、蓮真の眼前に詰め寄ると、その華奢な肩をがっしりと掴んだ。その瞳は、もはや天真爛漫な子供のそれではなく、逃さない決意を宿した「女」の光を宿している。

「いい、蓮真様。よく聞いて。ロンドン、絶対に遊びに来てね。その時は、あそこのお屋敷のうるさい妖怪たちも、サクヤも、アリスも抜きで……私と、二人だけでデートしてね! 絶対だよ!」

 顔を真っ赤にしながら、けれど退かない決意を込めて言い放ったエレーナ。

 あまりの勢いに、蓮真は言葉を失い、頬を淡い桜色に染めた。

「あ、あの、デートというのは、その……」

「返事は!? いいの!? ダメなの!?」

「……はい。その約束を励みに、僕も……兄さんに追いつけるよう、修行に励みます」

 蓮真の返事を聞くや否や、エレーナは素早く自分のスマートフォンを突き出した。

「約束! あと、これ! QRコード、今すぐ読んで!」

「えっ、あ、はい……」

 気圧された蓮真が震える手でスマホを取り出すと、エレーナは電光石火の早業で連絡先を交換させた。

「よし、これで逃げられないからね。毎日、修行の進み具合を報告すること! いい!?」

「わ、わかりました……」

 その光景を、朔夜は呆れたように眺め、アリスは「あらあら」と口元を抑えて微笑んでいる。エレーナにとって、この連絡先はロンドンへ持ち帰る最高の結果リザルトだった。

「……エレーナさん、これは、あなたに」

 蓮真が差し出したのは、彼が自ら編み上げた、極めて緻密な手製の守護符だった。

「兄さんには内緒ですよ。あなたの身を、一番に守るように調整してあります。ロンドンの霧は、冷たいと聞いていますから」

「……! 一生、宝物にする!」

 エレーナはそれを奪い取るように受け取ると、愛おしそうに胸に抱きしめた。


「おい、いつまでやってんだ。ゲートが閉まるぞ」

 朔夜の声が、別れを告げる号砲のようにロビーに響いた。

 一行は、名難しさを振り切るように保安検査場へと向かう。

 自動ドアが閉まる直前、アリスは最後に一度だけ蓮真に向かって深く一礼した。彼女の耳には、蓮真が放つ「いつまでも実の兄を想い、その無事を祈る音」と、エレーナのスマホから届いた、新しい恋の予感を告げるような高揚した「通知音」が、重なり合って響いていた。

 エスカレーターを下りながら、朔夜は一度も振り返らなかった。

 だが、そのポケットの中には、蓮真から渡された「もう一枚の符」――同じ血を引く弟からの、兄の最速を信じる祈りの結晶が、静かに熱を帯びていた。

「サクヤ、エレーナ。……行きましょう。私たちの、霧の都へ」

 アリスの声が、旅の始まりを告げる。

 夕闇の滑走路を、大型旅客機が咆哮と共に蹴り上げた。

 日本の記憶を胸に、朔夜たちの旅路は、再び鉄と硝煙と魔法の入り混じるロンドンへと加速していく。


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