不協和音のプロローグ
「……チッ、動きにくい。これだから日本の伝統行事ってやつは」
土御門朔夜は、鏡に映る自分の姿を見て、盛大なため息を漏らした。
紺色の落ち着いた浴衣。アリスの手によって整えられた帯は、腹のあたりを容赦なく締め上げている。ロンドンで愛車のアクセルを開け、神速の領域で世界を切り裂いている彼にとって、この「和装」という名の拘束具は、エンジンの回転数を無理やり下げられているようでどうにも落ち着かない。
「似合ってるわよ、サクヤ。そんなに不機嫌そうな顔をしなくてもいいじゃない」
背後から声をかけたアリス・レインもまた、淡い水色の浴衣に身を包んでいた。彼女が動くたびに、髪に飾られた小さな鈴が、ピアノの調律を終えた直後のような、澄んだ音を立てる。
術の一切を使えない彼女だが、その「耳」だけは世界を精密な楽譜として捉えていた。
「サクヤ、アリス、見て見て! 金魚! 私、金魚になる!」
エレーナが赤い金魚柄の浴衣の裾を翻して、廊下を走り回る。ロンドンのレンガ造りの街並みとは違う、古い木造建築の感触が楽しいのだろう。
「エレーナ、廊下でダッシュするなよ。……アリス、行くか。あんまり長居するつもりはないから、適当に屋台を回ったら引き上げよう」
アリスに向ける声だけは、少しだけ低域の角が取れる。朔夜は愛車が手元にない物足りなさを隠すように、スマホを帯の間に無造作に差し込み、面倒そうに歩き出した。
一行が向かったのは、鎮守の森に囲まれた古びた神社だ。
夕闇が降りる頃、参道には色とりどりの提灯が灯り、笛や太鼓の音が湿った夜風に乗って響いてくる。
ロンドンの「局」が提供している霊的な観測プラグインは、海外ではサーバーが応答せず、ただの置物と化している。朔夜は帯から引き抜いたスマホの画面をタップし、方位磁石アプリの「磁場数値」の乱れを確認しながら、経験則で周囲をスキャンした。
「霊脈の安定度は……まあ、普通か。今のところ磁場にデカい揺れはねぇな」
「そう? 私には、少しだけ気になる音が聞こえるけど……」
アリスがふと、足を止めた。
彼女は目を閉じ、祭りの喧騒――笑い声、揚げ物の爆ぜる音、囃子のリズム――の中から、ひとつの「異物」を拾い上げようとする。
「……錆びた弦が、無理やり弾かれているような音。ねぇ、朔夜。このお囃子の音、どこか変じゃない?」
「変? リズムが狂ってるだけだろ」
「いいえ。リズムじゃない。音の『色』が、ここだけ剥がれ落ちているみたい」
アリスが指し示したのは、参道の奥、一際古びた神輿が安置されている御仮屋の方向だった。
そこには、楽しげに笑いながらお面を買う子供たちの姿がある。一見、どこにでもある平和な祭りの風景。
だが、朔夜がアリスの視線を追って目を凝らした瞬間、神輿の周囲に溜まった淀んだ空気が、蜃気楼のように揺らいだ。
「――チッ。日本に来てまでハズレを引くとはな。アリス、エレーナから目を離すなよ」
朔夜の瞳に、徹底した合理主義者特有の冷ややかな光が宿る。
彼は浴衣の袖を乱暴に捲り上げ、右手の指先に、数枚の符術を挟み込んだ。
「お祓い」という名の、力任せの解体作業が始まろうとしていた。




