縁側の夕涼み ―嫌われ者の帰還―
山道での騒動を終え、土御門の屋敷に戻る頃には、空は燃えるような茜色から深い群青へと溶け始めていた。
庭の隅に停められたミニ・クーパーが、夕闇の中でアイランドブルーの質感をしっとりと落ち着かせている。エンジンが冷えていく際に放つ「キン、キン」という金属の微かな音だけが、夏の夜の始まりを告げていた。
ミニ・クーパーから降り、リビングへと向かう廊下。
朔夜が、少し歩き疲れた様子のアリスの歩幅に合わせ、さりげなくその腰に手を添えてエスコートする。その瞬間、背後を歩いていた妖怪たちの間に、目に見えるほどの戦慄が走った。
「……ちょっと、見た? 今の」
小鞠が、鳥肌立てながら隣の白妙に耳打ちする。
「サクヤが……あの『触れるもの皆、即座に滅殺』みたいな顔してた死神が、あんな……あんな、綿菓子みたいな顔して女を支えてるなんて!」
「……信じられませんわ」
雫も驚愕に目を見開いている。
「以前の彼なら、隣に誰かがいれば『邪魔だ、下がれ』と冷気を撒き散らしていたはず。それがどうして、あんなに……まるで精巧なオルゴールを扱うような、繊細な雰囲気を出すようになっているのです?」
彼女たちにとって、朔夜という男は「不変の恐怖」だった。
かつての彼は、土御門の宿命にその身を焼き、苛烈なまでに「異物」を排除することにのみ己を定義していた。その音は、一切の情愛を削ぎ落とした、硬く冷たい「鋼の死」そのもの。妖怪たちが彼を忌み嫌っていたのは、そのあまりの容赦のなさに、生命としての共鳴を一切拒絶されていたからだ。
「サクヤ、少しお疲れですか?」
アリスが、朔夜の顔を覗き込んで微笑む。
「……いや。この国の湿気が、俺の規律に少し負荷をかけてるだけだ」
そう言いながら、朔夜の口元には、かつての彼を知る者が見れば腰を抜かすような、極めて微かな、けれど確かな「慈しみ」の笑みが浮かんでいた。
「……ひ、っ!! 笑った!? あの男、今、笑ったわよね!?」
小鞠が悲鳴に近い声を上げ、蓮真の背後に隠れる。
「やだ、怖い! 明日は槍でも降るんじゃないの!? それとも、あの人間が、サクヤの脳の回路を全部作り変えちゃったの!?」
「……落ち着きなさい、小鞠。……けれど、確かに異常だわ」
白妙だけは、冷徹な観察者の瞳を保っていたが、その実体化した尾は不安げに激しく揺れていた。
彼女の鋭敏な感覚は、朔夜の変化の正体を見抜こうとしていた。かつての朔夜が「個」で完結した完成された凶器だったとするならば、今のアリスを伴う朔夜は、二つの異なる音色が溶け合い、互いの不備を補完し合う「完璧な和音」そのものだ。
アリスが彼に触れるたび、朔夜から放たれる刺すような呪圧が、凪いだ水面のように静まり、透明な安らぎへと変質していく。
「……あの娘が、彼の『調律師』だと言った意味が、ようやく分かったわ」
白妙は、廊下の曲がり角へと消えていく二人の背中を見つめ、溜息をついた。
「彼がロンドンで捨てたのは、家系への未練だけじゃない。……自分を縛り付けていた『孤独』という名の呪いも、あの娘に預けてきたのね」
「サクヤ、お茶が入りましたよ」
アリスが、屋敷の台所を借りて淹れた冷茶を運んでくる。縁側で佇む蓮真の両隣には白妙と雫が、そして膝の上に小鞠が向かい合わせに座っている、いつもの見慣れた光景。
朔夜は縁側から少し離れた柱に背を預け、アリスから受け取ったグラスの冷たさを掌で確かめた。かつての彼にとって、この縁側は孤独を噛みしめる場所であり、妖怪たちが自分を避けて通る「空白の地帯」だった。
「……ねえ、死神」
不意に、白妙が蓮真の肩越しに朔夜を振り返った。彼女の手には、いつの間にか小さな杯が握られている。
「……何だ」
「貴方の連れてきたその娘……。あれは、ただの人間ではないわね。土御門の淀んだ空気さえも、彼女が歩く先から透き通っていく。……貴方が以前より少しはマシな雰囲気になったのは、あの娘に調律され続けているからかしら?」
毒舌混じりの問いかけだったが、その声に以前のような拒絶の刺はなかった。
小鞠もまた、怯えながらも蓮真の膝の上で朔夜をじっと見つめる。
「小鞠も……少しだけ、見直してあげてもいいわ。さっき、あの掃除屋たちを追い払った時の背中。……少しだけ、昔の貴方より大きく見えたから」
妖怪たちは、嘘をつけない。彼らにとっての「音」や「空気」は、その存在の本質そのものだからだ。
彼女たちは、認めざるを得なかった。かつて、ひたすらに世界を呪い、周囲を傷つけることでしか自分を保てなかった「鉄屑の死神」が、異国の地で、守るべき「聖域」をその手の中に築いて帰ってきたことを。
「……勝手に言ってろ。俺はただ、俺の邪魔をする奴を退けただけだ」
朔夜はぶっきらぼうに視線を逸らしたが、グラスを持つ指先は穏やかだった。
アリスがそんな彼の隣に腰を下ろし、夜風に金髪を揺らしながら庭を眺める。
「いい夜ですね。……蓮真くんの優しい音と、皆さんの情熱的な音。そして、それらすべてを支えるサクヤの強い音。……今、この庭は、世界で一番美しい和音を奏でていますよ」
アリスが奏でる言葉の調律に、庭の虫の音が重なる。
かつては「嫌われ者」として、この屋敷の影を歩いていた朔夜。
今、彼は自らが選んだ「音」と共に、この歪で愛おしい家族の輪の中に、確かにその場所を占めていた。
「さあ、兄さんもこっちに来てよ! 今日は星が綺麗だよ!」
蓮真が呼ぶ声に、朔夜は小さく溜息を吐きながらも、アリスと共にその輪へと歩み寄った。
土御門の夏は、まだ終わらない。
鉄と、異形と、黄金の髪の調律師。
相容れないはずの旋律たちが混ざり合い、新しい夜の序曲が、静かに、けれど力強く響き渡っていた。




