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神速の陰陽師 〜ロンドン事件簿〜  作者: 風花
第二十一章:サンフラワー・ラプソディ ―愛され少年の庭と、鉄屑の変奏曲―
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縁側の夕涼み ―嫌われ者の帰還―

 山道での騒動を終え、土御門の屋敷に戻る頃には、空は燃えるような茜色から深い群青へと溶け始めていた。

 庭の隅に停められたミニ・クーパーが、夕闇の中でアイランドブルーの質感をしっとりと落ち着かせている。エンジンが冷えていく際に放つ「キン、キン」という金属の微かな音だけが、夏の夜の始まりを告げていた。

 ミニ・クーパーから降り、リビングへと向かう廊下。

 朔夜が、少し歩き疲れた様子のアリスの歩幅に合わせ、さりげなくその腰に手を添えてエスコートする。その瞬間、背後を歩いていた妖怪たちの間に、目に見えるほどの戦慄が走った。

「……ちょっと、見た? 今の」

 小鞠が、鳥肌立てながら隣の白妙に耳打ちする。

「サクヤが……あの『触れるもの皆、即座に滅殺』みたいな顔してた死神が、あんな……あんな、綿菓子みたいな顔して女を支えてるなんて!」

「……信じられませんわ」

 雫も驚愕に目を見開いている。

「以前の彼なら、隣に誰かがいれば『邪魔だ、下がれ』と冷気を撒き散らしていたはず。それがどうして、あんなに……まるで精巧なオルゴールを扱うような、繊細な雰囲気を出すようになっているのです?」

 彼女たちにとって、朔夜という男は「不変の恐怖」だった。

 かつての彼は、土御門の宿命にその身を焼き、苛烈なまでに「異物」を排除することにのみ己を定義していた。その音は、一切の情愛を削ぎ落とした、硬く冷たい「鋼の死」そのもの。妖怪たちが彼を忌み嫌っていたのは、そのあまりの容赦のなさに、生命としての共鳴を一切拒絶されていたからだ。


「サクヤ、少しお疲れですか?」

 アリスが、朔夜の顔を覗き込んで微笑む。

「……いや。この国の湿気が、俺の規律システムに少し負荷をかけてるだけだ」

 そう言いながら、朔夜の口元には、かつての彼を知る者が見れば腰を抜かすような、極めて微かな、けれど確かな「慈しみ」の笑みが浮かんでいた。

「……ひ、っ!! 笑った!? あの男、今、笑ったわよね!?」

 小鞠が悲鳴に近い声を上げ、蓮真の背後に隠れる。

「やだ、怖い! 明日は槍でも降るんじゃないの!? それとも、あの人間アリスが、サクヤの脳の回路を全部作り変えちゃったの!?」

「……落ち着きなさい、小鞠。……けれど、確かに異常だわ」

 白妙だけは、冷徹な観察者の瞳を保っていたが、その実体化した尾は不安げに激しく揺れていた。

 彼女の鋭敏な感覚は、朔夜の変化の正体を見抜こうとしていた。かつての朔夜が「個」で完結した完成された凶器だったとするならば、今のアリスを伴う朔夜は、二つの異なる音色が溶け合い、互いの不備を補完し合う「完璧な和音」そのものだ。

 アリスが彼に触れるたび、朔夜から放たれる刺すような呪圧が、凪いだ水面のように静まり、透明な安らぎへと変質していく。

「……あの娘が、彼の『調律師』だと言った意味が、ようやく分かったわ」

 白妙は、廊下の曲がり角へと消えていく二人の背中を見つめ、溜息をついた。

「彼がロンドンで捨てたのは、家系への未練だけじゃない。……自分を縛り付けていた『孤独』という名の呪いも、あの娘に預けてきたのね」


「サクヤ、お茶が入りましたよ」

 アリスが、屋敷の台所を借りて淹れた冷茶を運んでくる。縁側で佇む蓮真の両隣には白妙と雫が、そして膝の上に小鞠が向かい合わせに座っている、いつもの見慣れた光景。

 朔夜は縁側から少し離れた柱に背を預け、アリスから受け取ったグラスの冷たさを掌で確かめた。かつての彼にとって、この縁側は孤独を噛みしめる場所であり、妖怪たちが自分を避けて通る「空白の地帯」だった。

「……ねえ、死神」

 不意に、白妙が蓮真の肩越しに朔夜を振り返った。彼女の手には、いつの間にか小さな杯が握られている。

「……何だ」

「貴方の連れてきたその娘……。あれは、ただの人間ではないわね。土御門の淀んだ空気さえも、彼女が歩く先から透き通っていく。……貴方が以前より少しはマシな雰囲気かおになったのは、あの娘に調律され続けているからかしら?」

 毒舌混じりの問いかけだったが、その声に以前のような拒絶の刺はなかった。

 小鞠もまた、怯えながらも蓮真の膝の上で朔夜をじっと見つめる。

「小鞠も……少しだけ、見直してあげてもいいわ。さっき、あの掃除屋たちを追い払った時の背中。……少しだけ、昔の貴方より大きく見えたから」

 妖怪たちは、嘘をつけない。彼らにとっての「音」や「空気」は、その存在の本質そのものだからだ。

 彼女たちは、認めざるを得なかった。かつて、ひたすらに世界を呪い、周囲を傷つけることでしか自分を保てなかった「鉄屑の死神」が、異国の地で、守るべき「聖域」をその手の中に築いて帰ってきたことを。

「……勝手に言ってろ。俺はただ、俺の邪魔をする奴を退けただけだ」

 朔夜はぶっきらぼうに視線を逸らしたが、グラスを持つ指先は穏やかだった。

 アリスがそんな彼の隣に腰を下ろし、夜風に金髪を揺らしながら庭を眺める。

「いい夜ですね。……蓮真くんの優しい音と、皆さんの情熱的な音。そして、それらすべてを支えるサクヤの強い音。……今、この庭は、世界で一番美しい和音を奏でていますよ」

 アリスが奏でる言葉の調律に、庭の虫の音が重なる。

 かつては「嫌われ者」として、この屋敷の影を歩いていた朔夜。

 今、彼は自らが選んだ「音」と共に、この歪で愛おしい家族の輪の中に、確かにその場所を占めていた。

「さあ、兄さんもこっちに来てよ! 今日は星が綺麗だよ!」

 蓮真が呼ぶ声に、朔夜は小さく溜息を吐きながらも、アリスと共にその輪へと歩み寄った。


 土御門の夏は、まだ終わらない。

 鉄と、異形と、黄金の髪の調律師。

 相容れないはずの旋律たちが混ざり合い、新しい夜の序曲が、静かに、けれど力強く響き渡っていた。

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