第54話 条件で切る
朝の冷えが、板の間から上がってきていた。
まだ火を入れたばかりの石油ストーブが、小さく鳴りながら鉄の匂いを部屋に混ぜる。
窓の外では、晴れたあと特有の薄い白さが山の上に残っていて、雪でも霧でもない光が斜面へ張りついていた。
僕は、ストーブの横で紙を三枚ではなく、今度は二枚と一表に分けて並べた。
『鍵管理・持出判断 別紙(案)』
『連絡順(案)』
『優先条件表』
昨日のうちに、役割名で切るところまではできた。
でも今日は、その切り方そのものが通るかを試さないといけない。
「だいぶ顔つき変わったわね」
菜々さんが、紙の端を揃えながら言った。
「前より人の名前が減りました」
「ええ。そのぶん、向こうは“責任が見えない”って言いやすくなる」
もうそこまで見えていた。
顔で決めない。
条件で切る。
役割で分ける。
こっちが強くしたところは、そのまま向こうが崩したいところでもある。
「じゃあ、今日はそこですか」
「そこね。恣意的だとか、曖昧だとか、たぶんそういう顔で来る」
僕は、ノートPCの画面をもう一度見た。
昨夜、AIに頼んで、優先条件を三つだけに圧縮した。
冷蔵保管の有無。
夜間照明の必要。
通行可否。
条件を増やしすぎると、逆に運用で迷う。
だから、止めたくない機能に直接つながる三つだけ残した。
「これ以上、増やしませんか」
「増やさない」
菜々さんは即答した。
「紙は、説明できる数にしないと弱い。向こうが条件を増やしてきても、まずは三つで押し返す」
昼前の会合は、前回より人が少なかった。
でも、そのぶん顔ぶれは濃かった。
宮本さん。
北山さん夫婦。
吉岡さん。
あやか。
そして、大滝と側近の男。
読むべき人だけが来ている。
そういう感じだった。
「今日は、前回の続きです」
僕は紙を配りながら言った。
「鍵管理と持出判断を、別紙にしました。個人名ではなく、役割名と連絡順、それから優先条件で切っています」
「紙、増えたね」
宮本さんが言う。
「増えました。でも、前回止まった場所だけです」
それには、何人かが小さく頷いた。
最初に見せたのは、『鍵管理・持出判断 別紙(案)』だった。
停電確認役。
開錠役。
搬送役。
受領確認役。
返却・記録役。
「名前じゃないんだね」
北山さんの奥さんが言った。
「前に出す紙では、役割で切ります」
「その方がいいかもね。最初から誰それって出すと、そこだけ揉める」
その反応は悪くなかった。
少なくとも、最初の一枚は前より読みやすくなっていた。
次に『連絡順(案)』を出す。
集会所側発生時。
坑口側発生時。
開錠不在時の分岐。
搬送不可時の分岐。
「一本道じゃなくしたんだ」
宮本さんがそこを見て言った。
「はい。止まった時に、その場で足していた分岐を最初から入れました」
「それはいい」
短い言い方だったが、かなり大きかった。
最後に、『優先条件表』。
1. 冷蔵保管の有無
2. 夜間照明の必要
3. 通行可否
「人の顔じゃなくて、条件で切ります」
僕がそう言うと、吉岡さんが小さく頷いた。
「その方が揉めにくい」
ここまでは、前に出したかった反応だった。
でも、それが出た直後に、大滝の側近の男が口を開いた。
「考え方は分かります」
穏やかだった。
だから、その先がよく聞こえた。
「ただ、条件で切るというのは、別の言い方をすると、誰かがその場で条件を判定するということですよね」
そこだった。
恣意的。
という言葉は使っていない。
でも、もうほとんど同じことを言っている。
「判定は、停電確認役と受領確認役で分けます」
僕が返すと、男は頷いた。
「紙の上では、そうでしょう」
前にも聞いた言い方だった。
「では、冷蔵保管があるかどうか、誰が最初に確認するんです。夜間照明が必要かどうか、どこで線を引くんです。通行可否は、誰が見て、誰が責任を持つんです」
部屋が静かになる。
言われていることは、正しかった。
条件を入れれば、人の顔を消せる。
でも、条件を判定する人までは消えない。
「だから、役割を分けています」
僕は繰り返した。
「一人で決めないために」
「しかし、最後は誰かが決める」
男は、そこで少しだけ紙を持ち上げた。
「その最後の一人が見えないと、責任は曖昧になるでしょう」
それに続けるように、大滝が言った。
「条件表は悪くない」
認める入り方だった。
その認め方が、いちばん厄介だった。
「顔で決めるより、紙で切る方がましだというのも分かる」
大滝は、優先条件表を見たまま続ける。
「だがな、条件で切るなら、なおさら数字が要る」
「数字」
「そうだ。冷蔵があるなら先、夜なら先、それでいい。だが、その条件で本当に間に合うのか。山ノ上から集会所へ何分、坑口へ何分。道が悪い時はどう変わるのか。そこまで出さないと、紙だけでは運用にならん」
それは、かなり鋭かった。
恣意性を責めるだけじゃない。
数字の土俵へ引きずってくる。
その方が、こっちも逃げにくい。
「たしかに、順番だけでは足りないね」
意外にも、先に乗ったのは宮本さんだった。
「電話の順番は見えた。でも、着く時間まで見えないと、夜の停電ではまだ怖い」
北山さんも頷いた。
「集会所と坑口じゃ、必要なものも違うしな」
吉岡さんは、そこで短く言った。
「条件で切るなら、距離じゃなくて到達時間だ」
その一言で、部屋の向きが少し変わった。
距離じゃない。
到達時間。
たしかにそうだった。
山道では、近いことと早いことが一致しない。
「じゃあ、測るしかないですね」
気づくと、僕はそう言っていた。
大滝の側近が、初めて少しだけ笑った。
「ええ。そこまで出るなら、話はかなり違う」
「測って、紙にします」
僕が続けると、男はそれ以上は崩してこなかった。
その代わり、大滝が静かに言った。
「黒部くん、それなら一度回してみろ」
前へ押すでも、引くでもない声だった。
「集会所側発生。
坑口側発生。
夜。
昼。
道が濡れてる時。
少なくとも、そのくらいは分けて見ろ。村の順番を替えるなら、替えた後の方が本当に早いと出せ」
かなり面倒な宿題だった。
でも、同時にかなり前へ進む宿題でもある。
空気ではなく、条件と時間で切る。
それは、こっちが本来やりたい話に近い。
「分かりました」
僕が答えると、大滝は小さく頷いた。
「その紙なら、次は読む」
会合は、そこで妙に静かに終わった。
反対はされていない。
でも、通ったわけでもない。
ただ、争点がまた一段、実務の方へ下りてきた。
外へ出ると、風が少しだけ強くなっていた。
集会所の脇に立てかけたスコップの柄が、乾いた音を立てる。
「今日は、取られなかったね」
あやかが、歩きながら言った。
「何が」
「条件の線」
たしかにそうだった。
責任論で戻されるかと思った。
でも、完全には戻らなかった。
その代わり、数字を出せと言われた。
「きつい宿題ですけど」
僕が言うと、菜々さんはあっさり頷いた。
「きついわよ。でも、悪くない」
「悪くない、ですか」
「ええ。向こうが“保全会でまとめろ”じゃなく、“測って出せ”に降りてきたから」
なるほどと思った。
名義の話から、運用の話へ。
顔の話から、時間の話へ。
そこまで下ろせたなら、今日の会合は負けではない。
「じゃあ、次は試すんですね」
「そう。紙を直すだけじゃなくて、一回回す」
それは、ここまでの流れの中でもかなり大きい変化だった。
今までは、聞く。
切る。
書く。
そこまでだった。
でも次は、運用の叩き台を本当に一度動かす。
夕方、集会所へ戻ると、僕は『優先条件表』の横に新しい紙を置いた。
『到達時間表』
集会所側発生。
坑口側発生。
昼。
夜。
乾燥時。
雨後。
そこまで書いてから、もう一枚足す。
『試行運用記録』
誰に電話を入れたか。
何分で開いたか。
何分で着いたか。
どこで止まったか。
どこで分岐したか。
菜々さんが、後ろからその紙を見た。
「いいじゃない」
「まだ見出しだけです」
「見出しが切れたなら十分よ。次は測れる」
その言い方で、会合の帰り道に残っていた重さが少しだけ軽くなった。
条件表は、まだ完成じゃない。
でも、恣意的だと言われないための次の紙は、もう見えている。
最後に僕は、『試行運用記録』の下へ一行だけ足した。
『停止点』
止まったら、その場所を書く。
うまく行ったところじゃなくて、止まったところを残す。
そこまでやれば、たぶん次の会合では、もう少し強く言い返せるはずだった。




