第42話 働いた海
共同冷凍庫の詰所から戻った翌々日、集会所の机の上には写真が三枚だけ並んでいた。
一枚は、発泡箱を積む男の背中。
一枚は、鍵当番の札を持つ手。
一枚は、浜の選別台の端で、山から降りてきたらしい若い男が箱を洗っている写真だった。
菜々さんは、その三枚を少し離して置いていた。
間に空白がある。
でも、空白があるからこそ、そのあいだにある仕事が見える気がした。
「魚を前に出さないんですか?」
僕が聞くと、菜々さんは写真から目を離さずに答えた。
「出すわよ。でも、主役にはしない」
「主役じゃない?」
「ウニも鮭も、絵にすればそれっぽく見えるもの。積丹の海なんて、それだけで観光の顔になってしまう。でも、今回ほしいのはそこじゃない」
彼女は、一枚目の写真を軽く叩いた。
「この村の浜を支えてたのは、魚じゃなくて、回した家の方よ」
その言い方は、共同冷凍庫で聞いたことの続きだった。
箱を預かる家。
鍵を持つ家。
山から浜へ降りる家。
海の話なのに、残っているのは家の動きの方だった。
「今日は、その三つを固めるわ」
あやかは、すでに順番を決めていた。
最初は、箱を預かった家。
次に、共同冷凍庫の鍵を持っていた家。
最後に、山から浜へ降りていた家。
「先に船の家へ行かないんだ」
僕が言うと、あやかは即座に首を振った。
「船の話は、みんなもう知ってるから。知られてない方を先に押さえた方がいい」
「知られてない方」
「働いてたのに、語られてない方だよ」
最初の家は、浜から少しだけ上がったところにあった。
いまは物置にしか見えない古い建物だが、トシエさんの話では、発泡箱や塩や手袋を一晩預かる家だったらしい。
迎えてくれた老女は、最初に写真を見て、それから少しだけ笑った。
「こんな箱の写真、面白いのかい」
「面白いです」
菜々さんは迷わなかった。
「箱って、魚より先に仕事を見せるから」
老女は、その返事に少し驚いた顔をした。
でも、すぐに納得したように頷く。
「たしかに、箱が来ないと始まらないんだよ。浜はね、魚が揚がる前に置く場所を決めて、誰が積んで、どこへ戻すかを決めないと回らない」
「この家が、その置く場所だった」
「そう。船着き場に積みっぱなしにはできないからね。夜のうちに上へ運ぶ。朝になったら、また下ろす」
僕は、その話を聞きながら、山の物置を思い出していた。
仮設照明も、投光器も、延長コードも、置く場所が決まると仕事になる。
海でも同じだった。
老女は、押し入れの奥から薄い帳面を一冊だけ出した。
そこには、箱数と家の名前と、戻した時刻だけが書いてある。
「これ、残ってたんですか」
「残してたんだよ。忘れると次に回せないから」
忘れないためじゃない。
次に回すための控え。
その言い方が、この村らしかった。
二軒目は、鍵当番の札が最後まで残っていた家だった。
家の主は、詰所で見た名札の束を見てすぐ、自分の父の字だと気づいた。
「こんなもの、まだあったのか」
その声は、懐かしいというより少し困ったようだった。
「うちの父は、浜が回るうちは鍵を離さなかったんだよ」
「どうしてですか」
「離すと、誰が最後に閉めたか分からなくなるから」
菜々さんは、その言葉を聞いた瞬間に、ノートの端へ大きく丸をつけた。
「それです」
「何が」
「今回の真ん中に置く言葉」
家の主は怪訝そうだったが、僕には少しだけ分かった。
共同冷凍庫の鍵。
集会所の物置の鍵。
提灯蔵の鍵。
村の仕事はいつも、誰が最後に閉めたかで形を持つ。
「魚が主役じゃなくて、閉める人が主役なのかい?」
家の主がそう聞くと、菜々さんは少し考えてから答えた。
「主役というより、話を終わらせない人ですね。箱を戻す人、鍵を閉める人、帳面をつける人。そういう人がいるから、浜の一日が終わる」
「変わった見方だね」
「でも、残り方としてはそっちの方が本当でしょう」
家の主は、その返事を否定しなかった。
最後の家は、山から浜へ降りていた側の家だった。
浜に生まれたわけじゃない。
でも、閉山後に現金収入をつなぐため、春先から秋まで何度も海へ降りていたという。
出てきた男性は、トシエさんより少し若い世代で、最初から話が具体的だった。
「船に乗るわけじゃなかったよ。箱洗い、荷運び、昆布の片づけ、鮭の選別。誰でもできる仕事を、誰でも続けられるわけじゃないんだ」
「どうしてですか」
「呼ばれないと行けないから」
その一言で、あやかが静かに頷いた。
「やっぱり順番があった」
「あったよ。誰が先に声をかけるか。どの家の軽トラに乗るか。終わったあと、どこで現金を受けるか。山の家が勝手に浜へ降りても、すぐ仕事になるわけじゃない」
僕は、その話を聞いて、票の地図や役目の地図と同じものを見ている気がした。
村はどこでも、勝手に入るだけでは回らない。
順番を通るから、仕事になる。
「その時、嫌じゃなかったんですか」
僕が聞くと、男は少しだけ考えてから答えた。
「嫌というより、食う方が先だったな。でも今思うと、あれは出稼ぎじゃなくて、村の中で仕事を回し直してたんだろうね」
菜々さんは、その言葉も逃さなかった。
「それ、入れましょう」
「漫画に?」
「ええ。山から浜へ降りるって、景色の話じゃないもの。仕事の回路を渡る話なのよ」
帰りの車の中で、菜々さんは三つの家の名前を並べていた。
箱を預かった家。
鍵を持った家。
山から浜へ降りた家。
その間に、魚の絵はほとんどない。
あるのは、箱、鍵、手、荷台、帳面。
「ほんとに、観光の海じゃないですね」
僕が言うと、菜々さんは少しだけ笑った。
「観光の海にしたら、この村の顔がまた薄くなるもの」
「でも、ウニや鮭の方が分かりやすいですよ」
「分かりやすいわね。だから、そこに逃げないの」
その言い方は厳しかったが、正しい気がした。
見栄えのいい海にすると、この村で見てきたものの続きじゃなくなる。
必要なのは、働いた海だ。
山の家が降り、箱を運び、鍵を回し、最後に帳面を閉じた海。
集会所へ戻ると、菜々さんはすぐにラフを並べ替えた。
最初のページに、共同冷凍庫の扉。
次に、箱の控え。
その次に、鍵当番の札。
そこへ、山から降りる軽トラの後ろ姿を重ねる。
「これでいけるわ」
「タイトル、決まったんですか」
「仮だけどね」
彼女は、ノートの端に短く書いた。
『浜の記憶 働いた海』
それを見た瞬間、僕は少しだけ安心した。
漁業の歴史でも、観光の海でもない。
ちゃんと、この村の続きの名前になっていたからだ。
外では、海から上がってきた風が集会所の壁を鳴らしていた。
山で閉じた仕事が、海でまた受け直される。
その形が、今度は紙の上で残ろうとしていた。




