第43話 線引き
浜の漫画ラフが少し形になったころ、法務局から一通の封筒が届いた。
中には、登記完了の控えが入っていた。
『山ノ上電源設備株式会社』
昨日まで紙の上で使っていた名前が、今度は正式な会社として返ってくる。
その下には、はっきりと僕の名前があった。
『代表取締役 黒部星』
しばらくその文字を見ていた。
会社を作ると決めた時より、見積が通った時より、こっちの方が少し怖かった。
もう、ただの段取り役ではいられない。
名義そのものを引き受ける側になったのだと分かるからだ。
「届いた?」
菜々さんが、台所の方から当然みたいに聞いた。
「届きました」
「じゃあ、次は見えるようにするわよ」
「何をですか」
「会社」
午後、菜々さんは丸めたカッティングシートを抱えてやってきた。
外貼り用の黒い文字と、内側から重ねるための白い半透明のシート。
通りに面した僕の家の窓を見上げて、位置を決める。
「ほんとに貼るんですか」
「貼るわよ。黒部くんの家、通りからいちばん見やすいでしょう」
あやかまで呼ばれていて、脚立を押さえながら笑った。
「これ、嫌でも目立つね」
最初の窓に貼られたのは、会社の名前だった。
外側からは黒文字が締まり、内側には同じ位置に白い半透明の文字を重ねる。
昼でも読めるし、夜に灯りがつけば白い方が浮く。
山ノ上電源設備株式会社
代表取締役 黒部星
修繕相談 / 非常時電源 / BCP / 備品管理 / 保管記録 / 更新計画 / 申請補助
貼り終わると、ただの家の窓だったものが、急に窓口の顔を持つ。
「業務内容まで入れるんですか」
「入れるわ。何を受けるか見えないと、また村の中で止まるから」
「BCPまで?」
「入れるわよ。村の言葉で言えば、止まらない段取り。停電した時に何を残すか、誰が鍵を持つか、電池をいつ替えるか。壊れた後だけ受ける会社にしたら、どうせまたその場しのぎになる」
菜々さんはそう言って、もう一面の窓にも別のシートを当てた。
高橋菜々後援会
こちらも外は黒、内は白の半透明だった。
会社の窓よりずっと大きく、文字も少し太い。
あやかが下から見上げて、妙に楽しそうに言った。
「これ、夜に灯りつけたら目立つよ」
「そのために貼るのよ。もう隠して動く段階じゃないって、村の通りに見せるの」
菜々さんは悪そうな顔で言いのけた。
夕方、部屋の中の灯りをつけると、内張りの白い文字が先に光を拾った。
外の黒文字の輪郭が締まり、通りに向かって浮かび上がる。
片方は会社。
片方は後援会。
実務と政治が、同じ家の壁で並んでいる。
北山さんが通りがかって立ち止まり、少しだけ目を細めた。
「もう隠す気ないんだな」
「隠しても止まるだけなので」
僕がそう答えると、北山さんは少しだけ笑った。
「まあ、その方が今は分かりやすいか」
そうなのだと思う。
目立ちすぎる気はした。
でも、目立たないまま窓口をやる方が、たぶんもう無理だった。
その夜には、机の上にもう四件分の紙が並んでいた。
北山さんの投光器。
集落の奥の空き家の配線。
提灯蔵の鍵と備品整理。
集会所の非常灯と無線機の電池更新。
受けた順に並べただけなのに、見ていると少し息が詰まる。
今までは一件ずつ、目の前に来たものを見ていればよかった。
でも、窓口になると違う。
自分が動いていなくても、相談だけは先に積み上がる。
「その顔、やっと分かってきたわね」
菜々さんが、向かいの席でノートPCを閉じながら言った。
画面には、浜の写真を元にしたラフが並んでいる。
共同冷凍庫。
箱を運ぶ人。
鍵当番の札。
菜々さんの方も、もう次の漫画を動かし始めていた。
「何がですか」
「窓口って、便利なだけじゃないってこと」
僕は、机の上の紙をもう一度見た。
内容は似ているようで、必要な手は違う。
最後の一件にいたっては、まだ壊れてすらいない。
冬の前に切れるものを、切れる前に替えておきたいという相談だった。
投光器は、点検して使えるか分ければいい。
空き家の配線は、下手に触れば危ない。
提灯蔵の鍵は、道具より先に鍵屋か建具屋の判断が要る。
非常灯と無線機の電池は、今は動いていても、期限と保管場所と次に替える人を決めておかないと、停電の時に役に立たない。
「全部、僕が受けたら回りません」
「でしょうね」
「でも、全部を外に回したら、窓口の意味も薄くなる」
菜々さんは、それを聞いて少しだけ頷いた。
「だから線を引くのよ」
「線」
「抱える線と、渡す線。山ノ上電源設備が自分で見るところ。見たうえで外へ回すところ。最初から回すところ。その三つ」
言われてみれば、その通りだった。
でも、言葉にされるまでは、相談が来た時点で全部を抱えないといけない気がしていた。
「じゃあ、まず分類ですね」
「ええ。窓口って、何でも自分でやる場所じゃない。どこで切るかを決める場所なの」
午前中、僕は相談控の横に新しい欄を足した。
『初見で抱える』
『立会いのうえ外注』
『紹介のみ』
その三つを書いただけで、机の上の紙が少しだけ静かになった気がした。
北山さんの投光器は、初見で抱える。
点検して、使えるか分けるまでは自分たちでいい。
空き家の配線は、立会いのうえ外注。
危ないところまで自分で触らない。
でも、現場を見て、必要な工事の切り分けまではこちらで受ける。
提灯蔵の鍵は、紹介のみでは足りない。
中の備品整理までつながっているから、最初の立会いはこちらで入る。
集会所の非常灯と無線機は、初見で抱える。
型番と使用期限を控え、次の交換時期まで相談控に残す。
「ようやく会社っぽくなってきたね」
あやかが昼前に顔を出して、一覧を見て言った。
「今までは?」
「今までは黒部くんが頑張ってる感じ」
「今は?」
「今は、来月とか冬とか、まだ起きてない困りごとまで受けてる感じ」
その返しに、僕は少しだけ笑った。
たしかにそうだった。
でも、会社にするなら、頑張る順番を紙に落とさないと続かない。
最初に片づけたのは、北山さんの投光器だった。
棚から出し、型番を控え、通電確認をして、使用可・要修理・処分候補に分ける。
ここまでは自分で抱える線の内側だ。
「これ、使える方だけ載せればいいんですか」
僕が聞くと、菜々さんは首を横に振った。
「使えない方も載せるのよ。受けたのに消したら、何も残らないでしょう」
それで、相談控の備考に書き足す。
『投光器二台受け。使用可一台、処分候補一台』
地味な一行だ。
でも、窓口であることの責任は、たぶんこういう一行に出る。
都合のいい方だけ残さない。
受けたものは、受けた形で残す。
午後は、空き家の配線だった。
昨日見た焼け跡のある差し込み口の前で、僕は工具箱を開きかけて、そこで手を止めた。
後藤さんの顔が頭に浮かぶ。
これは、触る線じゃない。
「どうしたの」
家の主の女が聞く。
「ここから先は、僕じゃなくて電気工事の人に見てもらいます」
「黒部くんがやるんじゃないのかい」
その言い方に、少しだけ胸が詰まった。
窓口になったせいで、何でも自分がやると思われ始めている。
「最初に見て、危ないところまでを切り分けるのは僕です。でも、実際の配線工事は資格のある人に回します」
女は少し黙ってから、やがて頷いた。
「その方が安心か」
「その方が残しやすいです。誰が見て、誰が直したかまで」
「なるほどね」
その返事を聞いて、僕は少しだけ息を吐いた。
断ったんじゃない。
渡したのだ。
窓口のまま、外へ回す。
それでいい。
その場で後藤さんに電話を入れると、明後日の午後なら見られるという。
僕はすぐに相談控へ書き込んだ。
『初見済・外注立会い予定』
たったそれだけで、手放した感じが薄れる。
放り出したのではなく、次へ渡したと分かるからだ。
最後は提灯蔵だった。
鍵は相変わらず渋く、力で回すには怖い。
宮本さんは蔵の前で腕を組みながら言う。
「これ、壊して開けるのは簡単なんだけどね」
「壊したら、次に閉じられません」
「そうなんだよ」
僕は、相談控を開いたまま蔵の前にしゃがみ込んだ。
ここで必要なのは、鍵屋だけじゃない。
蔵を開けたあとに、中の提灯、コード、クリップライトを分ける人が要る。
つまり、紹介だけでは終わらない。
「これは、立会いのうえ外注ですね」
僕が言うと、あやかが横で頷いた。
「開ける人と、分ける人が別だから?」
「うん。鍵だけ直して終わりじゃない」
「ほんとに、村の相談ってそういうのばっかりだね」
宮本さんは、その会話を聞いて少しだけ笑った。
「前は、そういうのを村の中の誰かが黙って繋いでたんだよ」
「今は、こっちで繋ぐんです」
「そうだね。しかも、紙に残して」
夕方には、僕の頭の中より先に相談控の方が整い始めていた。
北山家の投光器。
初見で抱える。
集落奥の空き家配線。
立会いのうえ外注。
提灯蔵の鍵と備品。
立会いのうえ外注、ただし備品整理は自分たちで受ける。
集会所の非常灯と無線機。
初見で抱える。ただし、交換時期と保管場所を先に決めて残す。
こうして並べると、何でもない一覧だ。
でも、今日一日で僕が一番疲れたのは、作業よりこの線引きだった。
「疲れた顔してる」
帰り道で、あやかが言った。
「疲れた」
「どれで?」
「やるかやらないかじゃなくて、どこで渡すか考えるのが」
あやかは、それを聞いて妙に納得した顔をした。
「ああ、分かる。村って、その線が曖昧なまま回してきたからね」
「たぶん、向こうはその方が楽だったんだと思う」
「楽というか、強いんでしょ。混ぜておけば、あとで合う形にできるから」
その言葉で、また松原さんの顔が浮かんだ。
向こうは最後に合う形にする。
こっちは、最初に切る形にする。
似ているようで、やっていることは反対だった。
夜、机に戻ると、菜々さんは浜のラフに吹き出しを置いていた。
箱を預かる家。
鍵を持つ人。
山から浜へ降りる若い男。
観光の絵にはならない場面ばかりだ。
「そっちは進んでますね」
「ええ。こっちは、誰が回したかを描く段階に入った」
「僕の方は、誰に渡すかを決める段階です」
そう言うと、菜々さんは手を止めた。
「いいじゃない。やっと同じところへ来たわね」
「同じ?」
「ええ。私が物語でやってるのは、誰が村を回していたかを見えるようにすること。黒部くんが帳面でやってるのは、これから誰が何を回すかを見えるようにすること」
僕は、その言い方に少しだけ救われた。
今日やっていたことは、逃げでも先送りでもない。
引き受ける場所と、渡す場所を決めることだった。
相談控の最後に、僕は一行だけ足した。
『山ノ上電源設備は、相談を受ける。全部は抱えない。止まる前の備えも受ける。だが、どこへ渡したかと、いつ替えるかは残す。』
会社の決まりというには、まだ短すぎる。
でも、今の僕にはそれで十分だった。
窓口であることの責任は、何でも抱えることじゃない。
誰にも落とさず、次へ渡すことだ。




