第40話 残る形
浜の詰所で帳面を見た翌日、僕は朝から集会所の物置の前に立っていた。
鍵は宮本さん。
立ち会いはあやか。
保管管理は、山ノ上電源設備。
昨日まで紙の上に並んでいた条件が、今日はそのまま現場に降りてきている。
「じゃあ、開けるよ」
宮本さんが鍵を差し込むと、古い物置の戸が少しだけ軋んだ。
中には、前から積まれていた脚立、吉岡さんのところから預かった投光器、見つけ直した延長コード、それから保全会名義で新しく回ってきた仮設照明の箱が並んでいる。
僕は、受取帳と別に作った使用記録の台紙を板の上に広げた。
『搬入日』
『物品名』
『入手元』
『保管場所』
『使用時刻』
『使用者』
『返却確認』
「そこまで書くの?」
あやかが半分あきれたように言った。
「書きます」
「前からこうだったっけ」
「前が曖昧だったから、今こうしてるんだよ」
僕がそう言うと、宮本さんは文句を言わなかった。
代わりに、物置の棚を見回して言う。
「順番は悪くないね。使う物が前、預かり物が奥。こうしておくと、誰の名義で入った物か混ざりにくい」
「混ざると困りますから」
「困るのは、今まではこっちじゃなかったんだけどね」
その言い方に、僕は少しだけ苦笑した。
前は、どの名義で買って、どこへ置いて、いつ誰が使ったか曖昧でも、向こうの回路が最後に閉じてくれていた。
でも、こっちはそうしない。
曖昧なまま預からない。
午前中のうちに、後藤さんが来て投光器と延長コードを見てくれた。
古い投光器は一台が使用可、もう一台は配線交換が必要。
延長コードは去年の草刈り名目で入ったものだが、被覆はまだ使える。
「黒部くん、これも書くのか」
後藤さんが、使える方の投光器を持ちながら聞いた。
「書きます。点検の結果も残します」
「ずいぶん真面目だな」
「真面目というより、後で分からなくならないようにしたいんです」
後藤さんは、それ以上は言わずに点検表の端へ丸をつけた。
その横に、僕は小さく書き足す。
『旧保管物・点検後使用可』
たった一行だ。
でも、その一行で物の出自が変わる。
もともとあった物なのか。
今回新しく入った物なのか。
誰が持ち込んだのか。
向こうの回路では、その辺がいちばん曖昧だった。
昼前、保全会の側近の男がふらりと顔を出した。
先日の会合で壁際に座っていた男だ。
相変わらず、柔らかい顔で中を覗く。
「お、ちゃんとやってるね」
「やってます」
「仮設照明、そんなふうに置き分ける必要ある?」
男は、棚の上の付箋を見て言った。
『既存在庫』
『今回搬入』
『点検預かり』
『貸与』
「要ります」
「現場で使えれば、どれでも同じじゃないか」
「同じにしないために分けてます」
僕がそう答えると、男は一瞬だけ黙った。
たぶん、金額の話ではないと分かったのだろう。
「黒部くん、前にも言ったけど、細かいと回りにくいよ」
「細かくしないと、去年の草刈りで入ったコードが、今年の別名義の備品みたいに見えてしまうので」
その瞬間、男の顔から少しだけ笑みが落ちた。
でも、すぐ戻る。
「そこまで言うか」
「見えるようにしたいだけです」
僕は、そのまま受取帳を開いて見せた。
北山家の脚立。
吉岡さんの投光器。
物置に残っていた延長コード。
今回搬入の仮設照明。
「借りた物と、預かった物と、前からあった物を分けてます。後で戻す先も変わるので」
「……戻す先ね」
男は、その言葉だけを繰り返した。
向こうにとって嫌なのは、きっとそこだ。
戻す先が明確になると、途中で別の名義に滑らせにくい。
「村のためにやってるなら、そこまでしなくても」
「村のためだから残します」
自分でも、もう迷わずそう言えることに少し驚いた。
午後、実際の使用確認のために、集会所の裏で仮設照明を点けた。
草刈り前の備品整理の一環として、保管位置と使用時の導線を試すだけの作業だ。
大げさな仕事じゃない。
でも、試しに一度回すからこそ、記録が要る。
使用開始時刻。
点灯確認。
写真撮影。
収納位置。
鍵の返却。
その一つずつを、僕は台紙に書き込んだ。
菜々さんは横で写真を撮り、日付と場所が入る形式に整えていく。
あやかは物置の出し入れを手伝い、宮本さんが最後に棚を見て位置を決めた。
「これでいいね」
宮本さんがそう言った時、後ろで誰かが小さく舌打ちした。
振り返ると、午前中の男がまだ立っていた。
いつから見ていたのか分からない。
「写真までそんなに揃えるのか」
「揃えます」
「使えた、で済む話だろ」
「済ませないためにやってるので」
僕が言うと、男は露骨には怒らなかった。
ただ、周囲を見た。
あやか。
宮本さん。
菜々さん。
誰も、こちらを止めない。
「……後で面倒になるよ」
「面倒にならないように残してます」
その返事を聞いて、男は初めて少しだけ嫌そうな顔をした。
たぶん、金額や発注先の話より、こういう場面の方が向こうには堪えるのだ。
物がどう動いたかを、その場で閉じてしまう形。
後から差し替えにくい形。
男はそれ以上は言わず、帰り際に一つだけ残した。
「黒部くん、残る形ってのは、便利なだけじゃないからな」
「分かってます」
「本当に?」
そこで初めて、少しだけ問いの形になった。
脅しというより確認に近い。
「はい」
僕が答えると、男は何も返さずに坂を下りていった。
夕方、物置を閉める前に、僕は棚をもう一度見直した。
保全会名義で入った仮設照明。
旧保管物として残っていた延長コード。
点検預かりの投光器。
貸与された脚立。
たったそれだけだ。
でも、それぞれが別の札で立っている。
だから混ざらない。
混ざらないから、後で別の説明を差し込みにくい。
「今日、向こう嫌がってたね」
あやかが戸を閉めるのを手伝いながら言った。
「うん」
「黒部くん、平気?」
「何が」
「残るってこと」
僕は、その問いにすぐには答えられなかった。
浜の詰所で見た帳面を思い出す。
山でいま書いている台紙を思い出す。
残るものは、便利なだけじゃない。
残るからこそ、誰が閉じたかまで残る。
「平気じゃないかもしれない」
僕がそう言うと、あやかは少しだけ笑った。
「そのくらいでいいよ。平気すぎる人の方が危ないから」
菜々さんは、そのやり取りを聞いたあとで、写真のデータを保存しながら言った。
「でも、これで向こうはもう前みたいには回せない。少なくとも、この仕事についてはね」
「たった一回でも?」
「一回だからよ。最初の運用がそのまま型になるもの」
型。
たしかにそうだった。
誰が鍵を持ち、誰が記録し、誰が写真を残し、誰が返却を確認するか。
最初の一回が決まると、次からはそれを崩す方が手間になる。
夜、受取帳の横に、今日の使用記録を挟んだ。
『山ノ上電源設備 運用第一号』
そう書いてから、しばらくその文字を見ていた。
見積が通っただけでは、まだ名義だった。
でも、実際に使い、戻し、写真を残し、鍵を返した今は、少しだけ仕事になった気がした。
そして、その仕事はたぶん、向こうにとって一番嫌な形で残っている。




