第39話 浜の帳面
翌朝、僕たちは昨日より少し早く海へ降りた。
トシエさんの言ったとおり、写真を見るなら朝の光の方がいいらしい。
浜の空気は冷たく、共同冷凍庫の外壁は塩で白く曇っていた。
いまはもう動いていない小さな建物だが、脇に付いた詰所だけは、鍵穴の形にまだ人の手の記憶が残っている。
「ここだよ」
トシエさんは、割と新しい鍵を一本出した。
「閉めたあと、鍵だけはうちで預かってた」
「誰も開けなかったんですか」
「開けても、いまさら使う人がいなかったからね」
戸を開けると、乾いた冷気と紙の匂いが一度に出てきた。
詰所の中は狭い。
壁に古い予定表が貼ったままになっていて、その下に帳面の束、写真箱、色の褪せた名札が積んである。
窓は小さいが、朝の光だと中の文字がまだ読めた。
「思ったより残ってますね」
僕が言うと、菜々さんはすでに机の上を空け始めていた。
「残る場所は残るのよ。順番が切れた場所ほど、そのまま閉じるから」
いちばん上にあったのは、共同冷凍庫の使用控えだった。
日付。
家の名前。
預けた箱数。
受け渡しの時刻。
備考に、魚種が細く書いてある。
「鮭、ホッケ、ニシン……」
「あと昆布もね」
トシエさんが横から言った。
「食うための魚だけじゃない。出荷前の荷を一晩置くこともあった」
菜々さんは、控えの端に出てくる家の名前を追った。
昨日聞いた『箱を置く家』が、そのまま並んでいる。
船を持つ家より、軽トラを出す家、保管を受ける家、声をかける家の方が何度も出てきた。
「やっぱり、浜も受け皿の仕事で回ってたんですね」
僕がそう言うと、トシエさんは小さく頷いた。
「漁師町って言うと、みんな船の話をしたがるけどね。実際は、浜を回す方が先なんだよ」
写真箱の中には、何冊かの薄いアルバムがあった。
最初の一冊には、共同冷凍庫の前で発泡箱を積む男たち。
次の一冊には、昆布を干す女たち。
その次には、選別台の前で鮭を仕分けている人たち。
そして、その写真の端には、見覚えのある家の人間が何人もいた。
「この人、北山さんのところに似てますね」
「親父さんだろうね」
あやかが、写真を覗き込みながら言った。
「こっちは、吉岡さんの兄さんかも」
僕は、アルバムのページをめくる手を少しだけ止めた。
浜の写真なのに、写っているのは浜だけの家じゃない。
山側で見てきた名前が、そのままここにもいる。
「ほんとに、村じゅうで食ってたんだ」
「そうよ」
トシエさんは淡々と答えた。
「炭鉱が閉じてすぐは、山に残っても現金がなかったからね。浜へ降りて、何日かでも手を貸せば、そのぶんは回る。だから家ごとに順番があった」
その言葉のあとで、菜々さんが別の帳面を開いた。
表紙には、古い字でこう書いてある。
『浜組控』
「組、ですか」
「昔は小さくても、浜の中だけで回してたんだよ」
トシエさんは、少しだけ目を細めた。
「けど、だんだん痩せた」
「痩せた?」
「人も減ったし、魚も前みたいには揚がらない。冷凍庫も、無線も、帳面も、維持するだけで手がかかる。そうなると、小さい浜だけじゃ閉じられなくなるんだ」
帳面の後ろの方には、途中から別の印が押されていた。
近隣の、もっと大きい漁協の名前だった。
「ここで吸われたのね」
菜々さんが静かに言う。
「売り先と手続きが、向こうにまとまった」
「まとめてもらった、の方が当時の言い方には近いかもね」
トシエさんは苦笑した。
「助かった面もあったよ。伝票も販売も、こっちだけじゃ回らなかったから。でも、まとめてもらうってことは、こっちの帳面をこっちで閉じなくてよくなるってことでもあった」
その言い方で、僕はすぐに松原さんの言葉を思い出した。
閉じる人がいなくなると、回路そのものが誰かの外側へ流れていく。
「原発ができたのも、その頃ですか」
僕が聞くと、トシエさんは少しだけ考えてから答えた。
「前後してるね。原発のせいで全部変わった、とは言わないよ。でも、村の金の流れが別の方へ太くなったのは確かだ」
「浜より、別の金が強くなった」
「そう。浜で少しずつ食ってた家も、山で別の手当や仕事に寄るようになった。若いのは戻らない。浜は浜だけで人を抱えられない。そうやって痩せた」
あやかが、名札の束をひとつ持ち上げた。
プラスチックの札に、家の名前と当番が書いてある。
「これ、冷凍庫の鍵当番?」
「そうだよ。今日は誰が開ける、明日は誰が閉めるってね」
僕は、その札を見て、妙に胸の奥が詰まった。
鍵を持つ人。
保管する場所。
使った記録。
山でいま自分たちが作ろうとしている回路は、昔ここでも同じように回っていた。
ただ、こっちはもう痩せて、外へ吸われ、鍵だけが残ったのだ。
「誰の記憶が最後まで残ったんですか」
菜々さんが聞いた。
それは、たぶん今日いちばん大事な問いだった。
浜の仕事が痩せたあと、全部が同じように消えたわけではない。
何が残り、誰が覚えているかで、次に物語にできる輪郭が決まる。
トシエさんは、写真箱の底から、別の小さな帳面を出した。
『浜手伝控』
そこには、どの家から何人出たか、車を出したか、荷を預かったかが、年ごとに細く書かれていた。
「残ったのはね、魚の値段じゃないよ」
トシエさんは、その帳面を撫でるように置いた。
「誰が下りてきたか、誰が返事をしたか、誰が最後まで来たか。そういうことの方だ」
ページをめくると、途中から人名が減っていく。
家はある。
でも、返事をする人がいない。
来る人が減る。
鍵当番だけが、少ない名前で回り始める。
「浜の記憶って、漁の話じゃ足りないですね」
僕が言うと、菜々さんはすぐに頷いた。
「ええ。これは労働の地図よ。炭鉱が閉じたあと、この村の家がどうやって季節を渡っていたか、その記録」
僕は、昨日より少しだけはっきり分かった。
菜々さんが次に漫画にするべきなのは、鰊御殿みたいな派手な歴史だけじゃない。
閉山後、山の家が浜へ降り、箱を運び、昆布を揃え、冷凍庫の鍵を回して食っていた、その細い暮らしの方だ。
「語り手、絞れそうですか」
あやかが聞く。
「絞れるわ」
菜々さんは、写真を三枚だけ脇へ分けた。
「船を出した人じゃなくて、回した人を先に取る。箱を預かった家、鍵を持った家、山から浜へ降りた家。この三つを押さえれば、浜の仕事がどう痩せたかまで描ける」
「魚じゃなくて?」
「魚だけ描くと、観光の話になるもの」
その言い方で、僕も納得した。
ウニや鮭だけを切り出せば、季節の絵にはなる。
でも、この村の物語にするなら、魚の向こうにある家の動きまで要る。
詰所を出る前に、僕は共同冷凍庫の錆びた扉を一度だけ触った。
冷たい鉄だった。
中はもう空だろう。
でも、空になったあとも、ここには鍵と帳面の記憶だけが残っていた。
帰り道、海沿いの国道で菜々さんが言った。
「決まったわね」
「何がですか」
「次の漫画よ。炭鉱の次は漁業じゃない。閉山後に浜へ降りた家の話にする」
僕は、助手席でトシエさんから借りた控えの写しを見た。
そこに並んでいるのは、魚の名前より、家の名前の方だった。
「この村、ほんとに同じ家で回ってたんですね」
「ええ。山で閉じ、浜で受けて、また山へ戻る。そうやって細く続いた家だけが残ったの」
窓の外では、海が鈍く光っていた。
痩せた浜の帳面は、もう仕事を回さない。
でも、その痩せ方そのものが、この村がどこで何を失ったかを、いちばん正直に残している気がした。




