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支配域の管理論〜ドミネーション・マネジメント  作者: nov


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第38話 浜へ降りる道

 翌朝、僕は受取帳の隣に挟んだ見積の控えを、もう一度だけ開いてから閉じた。


 『山ノ上電源設備 見積第一号』


 昨日までは、ただ作った名前だった。

 でも一度通ると、その文字は急に重くなる。

 保全会の名義。

 保管場所。

 写真の形式。

 使う時の記録。

 向こうじゃない方の回路が、たしかに紙の上に残った。


「見た?」


 台所の方から、菜々さんが声をかけてきた。


「見ました」


「じゃあ、今日は浜よ」


 言い方が早かった。

 でも、昨日の続きとしては自然だった。

 山で紙が通ったなら、次は海で記憶を拾う。

 菜々さんの仕事も、こっちで止める気はないらしい。


 あやかが迎えに来たのは、朝の風がまだ冷たい時間だった。

 車は国道を下って、村の山側から海側へ抜ける。

 同じ村の中なのに、道を一本降りるだけで匂いが変わる。

 土と草の匂いが薄れ、代わりに潮と古い木の匂いが混じる。


「浜って、そんなに家が残ってるんですか」


 僕が聞くと、あやかはハンドルを握ったまま答えた。


「残ってるよ。漁そのものはもう細いけど、家は残ってる。仕事の順番も、少しだけ」


「少しだけ?」


「炭鉱が閉じたあと、山だけで食えた家ばかりじゃないから」


 その言い方で、今日の話の芯が少し見えた。


 案内された家は、港というほど大きくない浜の端にあった。

 坂の下に古い作業小屋があり、母屋の軒先には使わなくなった発泡箱が積まれている。

 網そのものは見当たらなかったが、物の置き方にまだ浜の家の癖が残っていた。


「ここ、昔は昆布もやってたし、秋は鮭の手伝いにも出てたんだよ」


 あやかがそう言って戸を開けると、奥から細い声が返ってきた。


「入んな。寒いうちなら、まだ頭が回るから」


 迎えてくれたのは、佐々木トシエさんだった。

 痩せた人だったが、座ったままでも背筋が落ちていない。

 卓袱台の横には古い無線機が置かれ、その隣に乾いた潮の匂いが染みついた手袋が畳まれていた。


「浜の話を聞きたいんだって?」


「はい」


 菜々さんが答える。


「炭鉱の次に、この村の家がどうやって食い繋いでいたかを」


 トシエさんは、その言葉を聞いて少しだけ鼻を鳴らした。


「炭鉱の話ばかり聞きに来る人はいるけどね。閉山のあと何で食ったかまで聞く人は少ないよ」


 そこで、湯のみを一つ置いて続けた。


「でも、村が本当に困ったのは閉じたあとだ。山の仕事が切れたあと、食わせたのは浜だよ」


 僕は、その一言で椅子に座り直した。

 昨日まで見ていた山の回路が、そこで急に別の方角へ伸びる。


「みんな漁師になったんですか」


「そんな立派なもんじゃないよ」


 トシエさんは首を振った。


「春先はニシンの手伝い。夏は昆布。ウニはせいぜい盆までだね。秋になれば鮭の選別。山の家の人間が、浜へ降りて手を貸すんだ。船を持つ家は少なかったけど、働き口はあった」


「山の家が、浜へ」


「そう。男は荷を運ぶ。女は昆布を揃える。子どもは箱を洗う。そうやって現金を繋いだんだよ」


 話し方は穏やかだったが、言っていることははっきりしていた。

 閉山で仕事が消えたあと、村はただ止まったんじゃない。

 山から海へ、季節ごとに細い回路を繋ぎ替えて生きていたのだ。


 菜々さんは、すぐにそこを拾った。


「その時も、順番があったんですね」


 トシエさんは、今度はちゃんと頷いた。


「あったよ。誰に先に声をかけるか。どの家が軽トラを出すか。どの家に箱を置くか。浜ってのは、船だけあっても回らないから」


「箱を置く家?」


「発泡箱も、塩も、手袋も、いちいち浜に積みっぱなしにはできないだろう。だから、上の家に預ける。夜のうちに車を回す家も決まってた」


 僕は、その言葉を聞きながら、昨日の集会所の物置を思い出していた。

 保管場所。

 鍵を持つ人。

 使った記録。

 山で今つくり始めた回路と、やっていることが似ている。


「無線も使ってたんですか」


 僕が卓袱台の横を指すと、トシエさんは少しだけ笑った。


「使うさ。海が荒れれば連絡が要るし、夜明け前は灯りも要る。浜は電気が落ちると、すぐ止まるんだよ」


 その一言に、菜々さんが目を細めた。


「山も同じですね」


「同じだよ。仕事ってのは、止まらないようにする人間がいて初めて続くんだ」


 あやかが、そこへ小さく挟む。


「この村、そういう人の名前ばっかり残ってるのかもね」


「残るさ。残らないと次に回せないから」


 トシエさんは、湯のみの縁を指でなぞった。


「炭鉱が閉じて、山の家が空いた。けど、全部がそのまま死んだわけじゃない。浜へ降りて、その年だけ食いつないだ家もある。二年、三年と続いた家もある。そうやって残った家が、あとでまた祭りにも草刈りにも戻るんだよ」


 僕は、その順番に少しだけ息をのんだ。

 山。

 浜。

 祭り。

 草刈り。

 別の話じゃない。

 村に残る家が、そのたびに仕事の形を変えていただけだ。


「じゃあ、浜にも役目の地図があった」


 僕がそう言うと、菜々さんがこちらを見た。


「ええ。しかも山より露骨かもしれない。船を出す家、荷を預かる家、声をかける家。仕事の線が、そのまま家の線になってる」


 トシエさんは、それを否定しなかった。


「いまはもう細いよ。でも、昔の控えを見れば分かる。誰がどこへ手伝いに行って、どこで現金を受けたか。共同の冷凍庫に何を入れて、誰が鍵を持ってたか」


「冷凍庫があったんですか」


「あったよ。小さいけどね。いまはもう使ってない」


 そこで、あやかが僕を見る。

 菜々さんも同じ顔をした。

 たぶん、次に探すものが決まったのだ。


「記録、残ってますか」


 菜々さんが聞くと、トシエさんはすぐには答えなかった。

 代わりに、座敷の奥の戸を見た。


「うちには少しだけ。あとは、浜の共同冷凍庫の横にあった詰所かな。帳面も写真も、閉めたあとそのままになってるはず」


「まだ残ってる?」


「残ってるよ。残ってるけど、誰も開けないだけ」


 その言い方は、ここまで見てきた村のいろんな場所と同じだった。

 残っている。

 でも、もう誰も順番を回さない。

 だから、ただ閉じたままになる。


 僕は、卓袱台の上の無線機をもう一度見た。

 山ノ上電源設備。

 修繕。

 非常時電源。

 備品の保管。

 記録。


 昨日、自分で作った会社の名前が、そこで少しだけ違って見えた。

 新しいことを始めるための名義というより、昔この村の家々がやっていた「止まらないように繋ぐ仕事」を、別の形で受け直すための名義に近い。


「黒部くん」


 菜々さんが、帰り際に小さく言った。


「分かってきた?」


「少しだけ」


「何が?」


 僕は、答える前に浜の方を見た。

 波は高くない。

 でも、風の向きが変わるたび、置かれた発泡箱が軽く鳴る。


「山ノ上電源設備って、会社を作ったつもりでした。でも、本当は受け皿を作ってるのかもしれません」


 菜々さんは、それを聞いて少しだけ笑った。


「そうよ。昔の家が順番で受けてた仕事を、今度はこっちで閉じるの」


 トシエさんは玄関先まで出てきて、最後に一つだけ付け足した。


「詰所へ行くなら、昼より朝だよ。光のあるうちじゃないと、写真が読めないから」


「写真もあるんですか」


「あるさ。浜に降りた家の写真帳がね」


 帰りの坂道を上がりながら、僕は振り返った。

 山で閉じたと思っていた村の仕事は、海の方へ細く続いていた。

 そしてその細い続きが、今度は僕たちの方へ戻ってきている気がした。


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