第37話 最初の発注
会社名を書いた紙を机の端に置いた翌朝、思ったより早く話は来た。
集会所に入ると、宮本さんが先に来ていて、湯のみの横に一枚の紙を置いていた。
「黒部くん、これ見な」
差し出されたのは、保全会の活動予定を書いた簡単な控えだった。
草刈り前の準備。
農道脇の軽微補修。
水路まわりの見回り。
その下に、手書きで一行だけ足されている。
『仮設照明及び可搬電源の点検・保管』
「これ……」
「松原さんが、こっちで閉じられる形なら通るかもねって」
僕は思わず紙を持ち直した。
保全会の名義だ。
でも、今までのように曖昧なままじゃない。
「誰が出したんですか」
「宮本さんが順番を回して、松原さんが文言を揃えて、最後は保全会の会合に乗せた」
あやかは、少しだけ得意そうに言った。
「大滝さんのところも、丸ごと止めるほど露骨にはできないよ。保全の名目で、仮設照明と可搬電源の点検保管なら、今の天気と草刈り時期を考えると通しやすい」
「じゃあ、山ノ上電源設備に?」
「正式に見積を出しな」
宮本さんは、当然のように言った。
「口約束で受けるんじゃないよ。最初だからこそ、紙を揃えるんだ」
その言葉で、僕はようやく椅子に座った。
始まる時は、もっと劇的かと思っていた。
でも実際は、湯のみの横の紙一枚で始まる。
たぶん、村の回路はそういうものだ。
昼までに、僕と菜々さんは見積の叩き台を作った。
項目は多くない。
『仮設照明点検』
『可搬電源点検』
『保管管理』
『使用時記録』
『作業写真整理』
「これなら、保全会の活動計画にも乗るわね」
菜々さんは、金額欄の横に指を置いた。
「高くしすぎると跳ねられる。安すぎると、向こうの関連会社の都合のいい比較対象にされる」
「いくらぐらいですか」
「最初は小さくていい。金額より、山ノ上電源設備の名前で見積が一度通ることの方が大きい」
僕は、見積書の一番上に会社名を書いた。
『山ノ上電源設備』
その下に、自分の名前を入れる。
昨日は紙の上の文字だったものが、今日は見積の差出人になっていた。
午後、保全会の集まりは集会所の小部屋で開かれた。
顔ぶれは多くない。
宮本さん。
北山さん。
松原さん。
それに、名前だけは見たことのある家が何軒か。
大滝本人はいなかったが、代わりに側近の男が一人、壁際に座っていた。
「じゃあ、出してもらった見積を見ます」
松原さんがそう言って、僕の紙を広げた。
小さな沈黙が落ちる。
紙を読む時の沈黙は、怒鳴り合いより疲れる。
「山ノ上電源設備って、もう作ったのか」
北山さんが先に聞いた。
「はい。まずは個人事業で受けます。後で形は固めます」
「電源設備で、草刈り前の照明点検もやるのか」
「照明と可搬電源、それから保管管理まで受けます。使った時の記録と写真も残します」
そこで、壁際の男が初めて口を開いた。
「記録まで要るのか?」
「要ります」
「そこまで細かくすると、現場が回りにくい」
「細かくしないと、またどの名義で入れた物か分からなくなるので」
僕がそう言うと、男は露骨に嫌な顔をしなかった。
ただ、少しだけ視線を落とした。
そこがいちばん本音に近かった。
松原さんは、そのやり取りを聞いたあとで、金額欄を指で叩いた。
「このくらいなら、保全会の活動費の中で処理できるね」
「通りますか」
「通すなら、写真の残し方と保管場所を先に決めること」
それは承認というより、条件だった。
でも、条件が出るということは、紙が読まれているということだ。
宮本さんが、すぐに横から言った。
「保管は集会所の物置。鍵はこれまで通り私とあやかで持つ。使用記録は黒部くん。写真整理は高橋さんでもいいね」
「いいわ」
菜々さんは短く答えた。
「写真の形式も揃える。後で差し替えが効かないように、日付と場所も入れる」
その一言で、壁際の男の顔がまた少し曇った。
向こうにとって嫌なのは、たぶん金額じゃない。
差し替えにくい形で残ることの方だ。
「じゃあ、今季は試しにこれで回すか」
北山さんが言うと、部屋の空気が少しだけ緩んだ。
試しに。
その言い方でしか通らないことは分かっていた。
でも、最初はそれで十分だった。
会合が終わったあと、外へ出ると、菜々さんが小さく息を吐いた。
「通ったわね」
「試しに、ですけど」
「最初は皆そう言うのよ。大事なのは、山ノ上電源設備の名前で一回通ったこと」
僕は、さっきまで握っていた見積の控えを見た。
受ける名義。
保全会の名義。
整理する人。
保管する場所。
写真の形式。
初めて、向こうの回路じゃない流れが、一枚の紙の上でつながった。
その日の夕方、菜々さんはもう次の取材に向かう準備をしていた。
浜で話を聞ける家が、明日の午前なら空いているらしい。
「そんなすぐ行くんですか」
「行くわよ。こっちが紙を通した日に、向こうも物語を進めるの」
「浜の方は、何から聞くんです」
「最初はニシン。次にウニ。炭鉱が閉じた後に、どの家がどっちへ流れたかを聞く」
僕は、その順番にも少しだけ納得した。鰊御殿があるくらいなので歴史もありそうだった。
山で閉じた仕事の続きが、海に開いていたなら、そこにも村の回路があるはずだった。
夜、集会所で一人になってから、僕は見積の控えを受取帳の隣に挟んだ。
別の紙だ。
でも、もう別の話ではない。
『山ノ上電源設備 見積第一号』
そう書き足してから、しばらくその文字を見ていた。
会社はまだ小さい。
仕事と呼ぶには、金額も少ない。
それでも、誰かの都合で後から差し替えられる側ではなく、自分で受けて、自分で残す側に一歩入ったのだと思った。
外では風が鳴っていた。
草刈りの季節は、もうすぐ来る。
その前に灯りと記録を整える仕事が、山ノ上電源設備の最初の仕事になった。




