第36話 向こうじゃない方の帳面
松原さんの家から戻った翌日、僕は朝のうちから机に紙を広げていた。
受取帳。
発注元の控え。
整理先を書いたページ。
修繕の依頼メモ。
非常時電源の相談を書きつけた走り書き。
並べてみると、もう個人のノートの量ではなかった。
「限界ですね」
僕が言うと、菜々さんはコーヒーを置きながらうなずいた。
「ええ。後援会の帳面で受けるには、もう重すぎる」
「じゃあ、どうします」
「会社にするのよ」
言い方は軽かった。
でも、それはここまでの全部の続きだった。
「会社……」
「黒部くん個人でも、後援会でもなく、受けるための名義を作る。修繕、非常時電源、備品の預かり、写真、見積もり、申請補助。向こうに閉じ方があるなら、こっちにも閉じ方が要るでしょ」
その言葉で、さっきまで輪郭だけ見えていたものが、ようやく形になった。
暴くだけでは足りない。
受ける名義を、自分で持たないといけない。
「できますか」
「できるようにするの。最初から大きい会社にする必要はないわ。窓口を一つ作ればいい」
昼前、あやかと宮本さんにも話すと、反応は早かった。
「会社にするの?」
あやかが目を丸くする。
「名前がある方が、頼みやすいかもね」
宮本さんは、驚くより先に実務の方を見ていた。
「個人だと、貸した脚立も、預けた投光器も、どこへ行ったか曖昧になるからね。帳面ごと受けるところがあるなら、その方が分かりやすい」
「大げさじゃないですか」
僕が言うと、宮本さんは首を横に振った。
「大げさじゃないよ。ここまで来たら、名前のない方が危ない」
その日の午後、僕は菜々さんと一緒に、会社の名前を三つ書き出した。
どれもしっくりこなかった。
格好をつけると浮くし、実務だけに寄せると固すぎる。
「もう、黒部くんの名前でいいんじゃない?」
「それは嫌です」
「じゃあ、村の名前を残す?」
少し考えてから、僕は紙の端に書いた。
『山ノ上電源設備』
菜々さんはそれを見て、少しだけ笑った。
「派手じゃないけど、悪くない」
「変なことはしてないって分かる名前がいいです」
「いいと思う。電源だけじゃなくて、設備って言葉で修繕も受けられる。電気工事も始めは外注すればいいしね」
その場で決まったわけではなかったが、少なくとも僕の中ではもう決まっていた。
名義があるなら、それは隠すためじゃなく、受けるための名義でありたかった。
夕方、吉岡さんの家へ寄ると、僕はその紙を見せた。
「会社にするのかい」
「はい。修繕と、非常時電源と、預かった物の記録を、ちゃんと受ける窓口にします」
吉岡さんは、字を追ってから言った。
「いいんじゃないかね。灯りの話をするなら、誰の名前で持つかは大事だ」
「村の中で受ける場所を、こっちで作りたいんです」
「なら、半端にやるんじゃないよ」
「半端?」
「帳面を作るなら、最後まで閉じな。途中で投げたら、向こうと同じになる」
その言葉は、松原さんの言い方によく似ていた。
回路の反対側に立っていても、実務の言葉は似るのかもしれなかった。
帰り道、海沿いの国道まで出ると、菜々さんが急に話題を変えた。
「私は私で、次の漫画を進めるわ」
「次?」
「漁業よ。炭鉱だけじゃ、この辺の記憶は片手落ちだもの」
窓の外では、鉛色の海が風で細かく揺れていた。
ここへ来るたびに通る道なのに、その時は少し違って見えた。
「村の中で、そこまで繋がりますか」
「外れないわ。山だけで村が回ってたわけじゃない。浜へ働きに出た家もあるし、魚を回してた家もある。炭鉱が閉じた後の暮らしを描くなら、海の側も要る」
「もう人は見つけてるんですか」
「あやかに何人か当たってもらってる。郵便局の先で、昔は昆布と秋鮭の手伝いに行ってた家があるって」
僕は少し驚いた。
でも、言われてみれば不自然ではない。
閉山したあと、人は山の中だけで食っていたわけじゃない。
「炭鉱の次は漁業、ですか」
「次というより、続きね」
菜々さんはフロントガラスの先を見たまま言った。
「山の記憶を漫画にしたら、今度は海の記憶も物にする。炭鉱だけに村の顔を固定しないためよ。選挙のためでもあるけど、それだけじゃない」
「売るんですか」
「売るし、配るし、残すわ。PODで刷れば数は調整できるし、港の関係先にも置ける。炭鉱だけの村だと思ってる人間にも、別の顔を見せられる」
僕は、その話を聞きながら、自分の方の紙を見た。
会社の名前。
受ける仕事。
預かる物。
残す帳面。
菜々さんは、記憶を物にする方へ進む。
僕は、実務を名義にする方へ進む。
やっていることは違うのに、どちらも向こうじゃない方の回路を作る仕事だった。
夜、集会所に戻ってから、僕はノートとは別の白い紙に、はっきりと書いた。
『山ノ上電源設備』
その下に、受ける仕事を並べる。
『修繕相談』
『非常時電源』
『備品預かり』
『写真記録』
『申請補助』
書き終えたところで、菜々さんが横から付け足した。
『代表 黒部 星』
「まだ早くないですか」
「早くないわ。決めないと、いつまでも黒部くん個人のままでしょ」
僕はしばらくその文字を見ていた。
自分の名前が、帳面の先ではなく、名義の先に乗っている。
少し怖かった。
でも、それ以上に、ようやく収まる場所ができた気がした。
「菜々さんは」
「私は金と設計を見る。それと、浜の話を漫画にする」
「両方やるんですね」
「両方やるのよ。黒部くんは会社を始める。私は物語を増やす。どっちも、この土地の受け皿になるから」
集会所のストーブが小さく鳴った。
外では、風がまた少し強くなっている。
停電した時に灯りを残す方法。
空き家を使い直す方法。
預かった物を曖昧にしない方法。
そして、この土地の記憶を売り物ではなく、残る物にする方法。
原発立地の影響も受け、今では近隣漁協に吸収されてしまった、この村の漁業の歴史そのもの。
全部、別々の話ではなかった。
僕はもう一枚の紙を出して、会社名の下に日付を書いた。
起業というほど立派な顔をしていなくても、ここから先は、もう引き受ける側の名前で進む。
その横で、菜々さんは新しい取材メモの見出しを打ち込んでいた。
『浜の記憶』
炭鉱の次に来るのが海なら、この土地はまだ一つでは終わらない。




