第35話 帳面を閉じる手
翌朝、僕は受取帳の『発注元』のページを開いたまま、しばらく動けずにいた。
会社の名前は見えた。
保全会の名義も見えた。
でも、それだけではまだ足りない。
紙は、最後に誰かの手で閉じられる。
「次は人ですね」
僕が言うと、菜々さんはうなずいた。
「ええ。見積書は勝手に束にならないし、写真も勝手に帳面に貼られない。最後に数字と名目を合わせる人がいる」
「その人を押さえれば、回路の形がもっとはっきりする」
「押さえるというより、見るのよ。向こうはたぶん、悪事の中心って顔はしてないわ。ただ、長く帳面を閉じてきただけ」
昼前、あやかが集会所に顔を出した。
僕が『発注元』のページを見せると、彼女はすぐに察した顔をした。
「そこまで来たなら、次は松原さんだね」
「松原さん?」
「保全会まわりの紙、最後はだいたいあの人のところへ行く。会計係っていうほど表に出ないけど、写真と見積と領収書を揃えるのは昔からあの人」
「大滝さんの身内?」
「身内ってほどじゃない。ただ、ずっとあっち側の流れで仕事してきた人」
宮本さんに一言通してもらうと、その日の午後には話を聞けることになった。
家は郵便局から少し坂を上がった先にあった。
古い平屋だが、玄関脇だけ妙に片付いている。
窓際にはファイル箱が見え、靴箱の上には電卓が二つ並んでいた。
出てきた松原和枝さんは、僕らを見る前に、あやかの顔を見てため息をついた。
「あんた、また面倒なのを連れてきたね」
「面倒なのは分かってる。でも、話が早いのはこっちだから」
松原さんは、それには答えず、僕らを座敷へ通した。
卓袱台の脇には、年度ごとに色分けされた紙の束が積んである。
「何が聞きたいの」
「保全会の見積書と、草刈りや景観維持の写真が、最後にどうまとまるのかを」
僕がそう言うと、松原さんは湯のみを置いた。
「まとまるっていうより、合う形にするのよ」
「合う形?」
「現場で使う名前と、予算で通す名前が最初から同じとは限らないでしょ。草刈りで入れた物を祭りで使うこともあるし、集会所で使った延長コードを農地の見回り名目で買った年もある。そういうのを、最後に揉めないように並べるの」
露骨な言い方ではなかった。
でも、ここまで見えてきたものの続きとしては十分だった。
「それを、松原さんが」
「私が閉じる。届いた写真を見て、見積と合うように順番を揃える。足りない紙があれば取りに行かせる。それだけ」
「それだけで、回路の最後が決まるんですね」
菜々さんが静かに言うと、松原さんは少しだけ目を細めた。
「若いのに嫌な言い方するね。最後を閉じる人がいないと、村の仕事は全部もめるよ」
「ええ。それは分かります」
菜々さんは否定しなかった。
「でも、今は閉じる人が固定されすぎてる。だから、同じ会社と同じ名義ばかりが残る」
松原さんは、その言葉にはすぐ返さなかった。
代わりに、近くのファイルから薄い控えを一枚抜いた。
『山ノ上地区環境保全会』
その下に、手書きで小さくメモがある。
『写真三枚不足』
『見積差替え済』
『領収書後日』
「こういうのが、最後に全部こっちへ来るの。大滝さんが声をかける。北陵環境整備が見積を出す。現場の誰かが写真を撮る。保全会の印を押す。で、最後に私が辻褄を合わせる」
あまりにも静かな説明だった。
だからこそ、余計に分かる。
村の金は、怒鳴り声じゃなく、こういう細い字で回っていた。
「じゃあ、松原さんが嫌だと言えば止まるんですか」
僕が聞くと、松原さんは首を横に振った。
「止まらないよ。別の人がやるだけ。でも、私より雑になる」
「だから任されてきた」
「そう。きれいに閉じる人がいると、みんな安心するから」
その言い方で、ここまで辿ってきたものがまた一つ繋がった。
宮本さんが連絡の順番を握るように、松原さんは帳面の順番を握っている。
村は、前に立つ人だけでは回っていない。
帰り際、松原さんは僕にだけ聞こえる声で言った。
「黒部くん、あんたたちが別の流れを作りたいなら、文句を言う前に紙を揃えな。写真も、見積もりも、受けた人の名前も。閉じられる形にして持ってこないと、結局また同じところへ戻るよ」
それは脅しではなかった。
ただの実務の話だった。
「分かりました」
「分かったなら、丁寧にやりな」
外へ出ると、あやかが息を吐いた。
「あの人、だいぶ話した方だよ」
「敵って感じはしませんでした」
「敵じゃないよ。ずっと帳面を閉じる側にいた人」
坂を下りながら、僕は受取帳を開いた。
『発注元』のページの隣に、もう一つ欄を足す。
『整理先』
その下に書く。
『松原和枝』
会社。
保全会。
そして、最後に帳面を閉じる人。
村の回路は、ようやく顔を持ち始めた。
菜々さんは、僕の手元を見て小さくうなずいた。
「ここまで見えたなら、次は作れるわね」
「何をですか」
「向こうじゃない方の閉じ方よ」
僕はその言葉を聞いて、初めて少しだけ先が見えた。
暴くことだけじゃない。
こっちで紙を揃え、こっちで閉じる流れを作る。
次に必要なのは、対抗する帳面だった。




