第30話 段取りの名前
冊子の話が一段落したころ、僕の携帯に見知らぬ番号から着信があった。
「黒部くん? 空き家の修繕のことで、ちょっと見てほしいんだけど」
声の主は、坑口の家で会った吉岡さんだった。
僕が返事をするより先に、彼女は続けた。
「あの家、雨どいがまた外れそうでね。ついでに、停電したときの灯りも少し考えたいんだよ」
「分かりました。今日、見に行きます」
電話を切ってから、僕は少しだけ手の中を見た。
まだ何者でもないと思っていた手に、ここ数日で名前がつき始めている。
現場に着くと、吉岡さんはもう庭に出ていた。
隣にはあやかがいて、少し離れたところで菜々さんがメモを取っている。
いつもの並びと少し違う。
でも、選挙で前に立つのが菜々さんで、地域の段取りを先に受けるのが僕だということは、もうはっきりしていた。
「来てくれて助かるよ」
吉岡さんはそう言って、家の軒先を見上げた。
「修繕のこと、誰に頼んでいいか分からなくてね。大滝さんのところに言うほどでもないし、かといって放っておくと、また雨が入る」
「今日、どこまで見ますか」
僕がそう聞くと、吉岡さんは少し驚いた顔をした。
「そういうふうに聞いてくれるのかい」
「段取りが先の方が、話しやすいですから」
その言葉に、あやかが小さく笑った。
「ほら、もう先に受けてる」
吉岡さんは、笑いながら頷いた。
「じゃあ、まず雨どい。それから、この部屋の窓。最後に、停電のときの明かりを考えたい」
僕はノートを開いて、順に書いた。
必要な脚立、交換する板、配線を見られる人、古いランプを使えるかどうか。
菜々さんは、その横で部材の手配と予算を即座に整理していく。
僕が先に受けると、彼女は後ろで設計に回る。
それが、もう当たり前になり始めていた。
午前のうちに、北山さんも顔を出した。
冊子を読んでから、ずっと気になっていたらしい。
「黒部くん、次の草刈り、うちも出るから」
「ありがとうございます。じゃあ、午後の段取りも一緒に見てもらえますか」
そう返すと、北山さんは少しだけ照れたように頷いた。
「おう」
声をかける順番が決まると、村の動きは早い。
誰が脚立を持つか、誰が道具を出すか、誰が昼の茶を用意するか。
細かいことまで、僕に直接聞かれるようになった。
昼過ぎ、集会所へ戻ると、ホワイトボードに修繕予定を書いてほしいと言われた。
名前の欄の先頭に、僕の名前を書いたのは、あやかだった。
「ここ、黒部くんでいいでしょ」
僕は一瞬だけペンを持ったまま止まった。
「いいんですか」
「いいよ。誰が最初に受けるか、村はちゃんと見てるから」
名前が書かれると、隣にいた年寄りがすぐ補足を書き足した。
脚立を出す家。
電源を見られる家。
古いランプを持ってくる家。
外注する電気工事会社。
修繕は、いつのまにか一覧になっていた。
そこに、菜々さんが小さく一言だけ書いた。
「記録係: 高橋」
それを見て、吉岡さんが笑った。
「役割が見えると、村は少し安心するんだよ」
僕はホワイトボードの名前を見た。
自分の名前が先頭にあるだけで、周りの動き方が少し変わる。
先に受ける、というのはそういうことだった。
夕方には、修繕の話はすでに次の家へ回っていた。
あやかが電話をかけ、吉岡さんが紹介し、僕が段取りを伝える。
誰かに依頼を渡すたび、村の中で僕の名前が一度だけ先に立つ。
帰り際、吉岡さんが玄関で言った。
「あんた、もう少し先に受けてもいいよ」
「……そう見えますか」
「見えるよ。段取りをつける人は、最後に一番先に動いてるように見えるからね」
その言葉は、少しだけ重かった。
でも、嫌ではなかった。
僕は初めて、自分の名前が村の中で実務の名前になる感じを知った。
菜々さんが前で話すなら、その前に地域を回って段取りを受ける名前だ。
そうやって、次の依頼は僕宛てに届くようになっていく。




