第29話 前に座る
冊子が村に回ってから数日後、あやかから一言だけ連絡が来た。
「説明してほしいって」
どこで、とは書かれていない。でも、もう分かった。
誰かが冊子を読んで、誰かが要点を知りたくなった。
そういう時に声がかかる先が、少しずつ変わってきていた。
集会所の一角に、いつもより少し人数が集まっていた。
前に立ったのは菜々さんだった。白いジャケットのまま、集まった顔を順に見ている。
僕はその半歩後ろにいて、話が終わったあとにどの家へ回すか、誰に何を持っていくかを頭の中で並べていた。
「これ、あんたがまとめたのか」
最初にそう聞いたのは、冊子を読んだことのある男だった。
「まとめたのは菜々さんです。僕は、聞いたことと見たことをつないだだけです」
そう言うと、菜々さんが小さく頷いた。
「私は前で話すけど、細かい話はセイくんに聞いて。地域を回ってるのは、いま彼だから」
その一言で、部屋の視線が少しだけ僕にも流れた。
僕は、深く息を吸ってから話し始めた。
炭鉱の頃に村がどう動いていたか。
閉山で何が空いたか。
空いたあとに何を残すべきか。
畑、空き家、電源、草刈り、写真、会計。
どれも別に見えて、実際にはつながっていること。
「村の話を、ただ残したかったんです」
僕がそう言うと、前に座っていた年配の男が腕を組んだ。
「残すだけなら、わざわざ本にしなくてもいいだろ」
「そうです」
僕は、そこで少しだけ言葉を選んだ。
「でも、残る形がないと、あとで誰の話だったか分からなくなる。分からなくなると、誰かが都合よく説明できるようになる」
集会所の空気が静かになった。
そこへ、菜々さんがすかさず足す。
「だから、記録にしました。見た人が勝手に書き換えにくい形で。選挙で前に出るにしても、まず土台を見えるようにしたかったんです」
年配の男は、冊子を指先で押さえたまま、しばらく黙っていた。
「……大滝さんのやり方を、正面から否定してるわけじゃないんだな」
「否定したいんじゃなくて、見えるようにしたいんです。継続できるように」
僕はそう答えた。
それから、非常時電源の話をした。
集会所や坑口の家だけでなく、空き家の修繕に合わせて、停電時に最低限の灯りと通信を保つこと。
それが、祭りの備品や記録を守るだけでなく、戻れる場所を残すことにもなること。
「それ、村の仕事だろ」
誰かがそう言った。
「はい。でも、今まで誰がどこを持つかが曖昧でした。菜々さんが前で話すなら、僕は後援会として地域を回ります。声をかける順番も、修繕も、電源の段取りも、その方が早い」
言った瞬間、少しだけ胸が鳴った。
前に出るのは菜々さんだ。
でも、村の中で最初に受ける役は、僕が持つ。
菜々さんは、その言葉を聞いてから、前に立ったまま静かにメモを取った。
必要な家、必要な順番、次に回す相手。
彼女は選挙で前に立つ人として場を見る。
僕はその後ろで、地域を回すための順番の采配を受け持つ。
話が終わるころには、部屋の空気が来た時より柔らかくなっていた。
「じゃあ、次の修繕のときは、お前が声かけるのか」
年配の男がそう聞いた。
「はい」
「それなら、分かりやすい。高橋さんは前で話して、黒部くんが後ろを回すならな」
その返事に、僕は少しだけ肩の力が抜けた。
外へ出ると、あやかが先に待っていた。
「ちゃんと役割が分かれてきたね」
「そう見えた?」
「見えたよ。村は、前に立つ人と、先に回ってくる人をちゃんと分けて覚えるから」
その言葉を聞いて、僕は集会所の入口を振り返った。
中では、まだ何人かが残って話している。
冊子を持っていた男も、修繕の話をする人も、皆、僕の方を一度見ていた。
その視線は、警戒じゃなかった。
次に話す相手と、次に頼む相手を確かめる目だった。
僕は、初めてその意味を重く受け取った。
菜々さんは選挙で前に立つ。
僕は後援会として地域を回る。
そう分かれただけで、次の会話の始まり方が変わる。
投稿が遅くなったので2話更新です




