第12話 平穏の亀裂
あるの日の朝、村役場のロビーは、どんよりとした湿り気を帯びた困惑に包まれていた。
発端は、隣町にある地方裁判所支部へ別件の用事で出向いたある村人の目撃談だった。
「裁判所の掲示板に、うちの村の土地のことが貼り出されている」
その噂は、瞬く間に役場の廊下を駆け巡った。
掲示されていたのは、山ノ上地区の数区画について、所有者不明土地管理命令の申し立てがあった旨と、所有者等に対する「異議の催告」を公示する書面だ。
「裁判所が、『本当の持ち主はいないか』と公に問いかけている……」
職員たちの遠巻きの視線と、村人たちの噂話。村全体を支配していた「沈黙」という名の空気が、一夜にして牙を剥く。
「黒部君、悪いんだけど……」
村唯一のバイト先のコンビニ。僕がいつも通り出勤すると、店主は目を逸らしてそう告げた。来週からシフトに入れられない。事実上の解雇通告だった。
さらに嫌がらせは加速する。工事車両の通行には、近隣住民が「砂埃がひどい」「道が痛む」と難癖をつけ、水道の出は目に見えて悪くなった。
ゴミ捨て場では、最近の若い者は分別がなっていないと、まるでゴミを監視して暴いているような陰口を叩かれたりと、誰が音頭を取っているのかは明確だった。
「クラシックな『村八分』ね。予想通りすぎて欠伸が出るわ」
意気消沈して帰宅した僕を、菜々さんは淹れたてのコーヒーで迎えた。最近は村にいることが増えた菜々さんだ。
彼女は自分のタブレットではなく、今日届いた別の書類――今回の申立てを依頼した隣町の司法書士からの報告書に目を通していた。
「セイ君、これを見て。今回の管理命令の申立てを依頼した隣町の佐々木さんからの連絡よ。無事に裁判所が『異議の催告』を公示したわ。これで二ヶ月間、本当の所有者が名乗り出なければ、正式に管理責任が剥奪される」
費用をケチって自分達で申立てることもできたが、向こうの息のかかった人間を管理人にねじ込まれては元も子もない。だからこそ、裁判所に確実にこちらの息のかかった候補者を推薦できるよう、最初から裁判所がある隣町の専門家に依頼して外堀を埋めておいたのだ。
「……名乗り出るはず、ないですよね。ずっと放置されてたんですから」
「ええ。だからこの二ヶ月はただの消化試合よ。そして期間終了後、裁判所は私たちが候補に挙げている佐々木さんを正式な『管理人』として選任する。彼は堅物のプロフェッショナルよ。選任されれば即座に、役場に対して『保全会の活動実態と帳簿』の開示を法的な権限で容赦なく突きつけるわ」
菜々さんは楽しげに笑い、窓の外に広がる山ノ上地区の斜面を見つめた。
「あちらにとっては、この二ヶ月間は『いずれプロに嘘を暴かれる』と怯え続ける死刑執行待ちの時間なのよ。だからこそ、今のうちにあなたを追い出して、申立て自体を取り下げさせようと必死になっているの」
「……なるほど、だから嫌がらせが急に酷くなったんですね」
「ええ。あちらも必死よ。この二ヶ月、あなたの生活はもっと惨めになる。水道が止まり、店で無視され、村全体の『絆』があなたを押し潰そうとするわ。……耐えられるかしら?」
僕は、ポケットの中で予納金30万円の振込票を握りしめた。
自分が信じていた「近代社会」のルールが、この村の原始的な暴力に試されている。だが、登記簿という名の地図に、新しい楔を打つための時間は、一秒ごとに刻まれているのだ。
「……なんてことはないですよ」
僕の絞り出すような言葉に、菜々さんは満足げに頷いた。
平穏の終わりを告げる二ヶ月のカウントダウンは、もう止まらない。
「ところで菜々さん。メキシコペソって儲かるんですか?」
「儲かるわね。でも、今から仕掛けるなら微妙ね。私のは安いうちに仕込んで放置だもの」
バイト先もなくなった今、手元のお金は減る一方だがバイトを探すにも近場では見つからないだろう。クリティカルに攻めているはずなのに、反撃で兵糧攻めされている気分だ。
「セイくん。もう個人投資家みたいなもんだから、ちょっとレッスンするわね」
タブレットを操作し、菜々さんは僕の前にチャートを表示させた。右肩下がりに崩落を続ける絶望的なグラフだ。
「トルコリラよ。今、一番資金効率の良いこれを使ったスワップ投資についてよ」
「トルコリラ……? こんなに下がってるのにですか?」
「ええ。価格そのものはね。でも、トルコは慢性的なインフレを抑え込むために、強烈な高金利政策をとっているの。日本円でトルコの高金利通貨を買うポジションを持っていれば、毎日チャリンチャリンと『スワップポイント』——つまり、二国間の金利差による利息が入り続けるわ」
「毎日、利息が……。でも、それ以上に通貨の価値が下がったら意味ないんじゃ?」
「その通り。高い利息をもらいながら、元本がどんどん溶けていくの。多くの素人は目先の高金利に目が眩んで飛びつき、結果的に通貨安の直撃を受けて退場していくわ」
菜々さんは楽しげに、ブラックコーヒーを一口飲んだ。
「でもね、これって何かに似ていると思わない?」
「……何かに?」
「ええ。目先の『補助金』という利息をしゃぶり尽くしながら、村という『土台』そのものが過疎と老朽化で崩落していくのを放置している、このムラの連中よ」
僕はハッとした。確かに、構造は全く同じだ。右肩下がりの衰退の中で、ただ今日の利益だけを貪っている。
「投資において、こういう歪んだ相場で利益を出す方法は一つよ。底が抜けるタイミングを見極め、ギリギリまでスワップを回収して、他人にババを引かせて逃げること。あるいは、彼らのように『自分たちが死ぬまで底が抜けなければいい』と神に祈るか、ね」
菜々さんは僕のスマホを取り上げ、証券アプリを立ち上げた。
「さあ、セイ君。兵糧攻めには『不労所得』で対抗よ。この2ヶ月間、トルコリラのスワップポイントで毎日のコーヒー代を稼いでみるのね。もちろん、レバレッジの管理と損切りのラインは厳格に。ムラの連中と同じゆで蛙になりたくなければね」
「……鬼コーチですね」
「ふふ、個人投資家への歓迎のレッスンよ。『人口動態』と『産業構造』、そして意思決定に大きく関わる『政治宗教』。これらを見ればどこの投資も、この村の未来ももう決まっているようなものなのよ」




