グラーチス・ヒューグラン
殺気、いや気配すら全く感じる事ができなかった。
この瞬間まで向こう側に立っていて、稽古生たちの様子を見ていたじゃないか。いつの間にこんな場所まで近づいてきていたんだ。
俺の慌てぶりに面白そうにグラーチス・ヒューグランは「クハハッ」と短く笑った。
「ふむ。一瞬立ち上った魔力は凄まじいものであったが果たして。フィリナの目が節穴かそうではないか。これは一興であるな」
何事も変わったことは起こっていないかのように、細く優しい眼差しで笑いかける。
だが、目の奥は全く笑っていないのは明白だ。
背筋に冷たい氷が撫でつけられるような気分だ。蛇に呑みこまれる瞬間のカエルがこんな感覚を味わうんだろうか。
「遅くなり申し訳ございません。すぐに稽古に……御師様、トラジと話をしていらっしゃったのですか?」
戻ってきたフィリナの声が聞こえると、張り付くような緊張感が解かれた。凍り付いた空気が氷解するように、グラーチスからの刺すような殺気も消えていた。
「よしフィリナ。セリナと相稽古を始めろ。本気で打ちあって構わん」
その声が響き渡ると、他の稽古生がその場より離れる。
双子の姉妹は稽古場の中央で静かに立ち、お互いを見つめ合う。
(相稽古。つまりは1対1ということか)
落ち着きを取り戻しつつある俺を見ながら、グラーチスは意味深な笑顔をこちらに向ける。グリューンがブルルと頭の上で身震いしたのを感じた。
「殺気への反応は上々。なかなか良いではないか。お主、かなり実践向きだな。面白い」
再度、グラーチスの「クハハッ」という笑い声が耳の中で跳ねた。
自分が試されている。そう直感する。
肩をすくめるようにして、この居心地の悪い空気感を少しでも和ませようと息を吐き出す。そんな俺とグラーチスの目線の先には、全身に緊張感を漲らせながら、フィリナとセリナが距離を保ち、始まりの合図を静かに待っていた。
「始め!!」
グラーチスの気迫のこもった号令が天を突いた。
双子はどちらともなく滑るように動き出す。次の瞬間、フィリナの右の拳とセリナの左足が派手な音を立てながらぶつかり合った。
火花が飛び散り、そのまま何度も撃ち合う!
流れるように鮮やかな動きのセリナと、どこか型にはまった様な、しかし的確な動きを重ねるフィリナ。
「素晴らしい成長だフィリナ。腕を上げたじゃないか」
歯を見せながら、どこか嬉しそうに笑うグラーチス。姉の成長をセリナも感じているのだろう、大きく息を吸い込むとフィリナの動きに合わせて素早い蹴りの連打で凌ぐ。
蹴りと拳。
リーチの長さではセリナに分があり、破壊力もフィリナよりもありそうだ。
しかし、フィリナの的確な拳の連打に辟易したような顔になり、動きが一瞬止まったかのように思えた。
『龍昇の撃!』
つまりはアッパーのような打撃。素早いステップで一気にセリナの懐に飛び込み、みぞおちを狙った。しかし、その動きはおそらく分かっていたんだろう。
「姉さん! 誘い込まれたね……空虎の破!」
懐に飛びこんできたフィリナから一瞬離れ、空振りした拳をステップして戻ってきた蹴りを浴びせる!
そのまま叩きつけられるようにして稽古場の床に倒れる姉。
「勝負あった! それまで」
荒い息を吐き出しながら、セリナは姉に手を差し伸べる。妹の手を取り、負けてしまったがどこか満足げに笑顔になるフィリナだ。
「クハハッ! フィリナ、お前はいつもセリナには敵わないな。素質は充分だとは思うのだがな」
先ほど俺に向けていた殺気はどこへやら、グラーチスは細い目を更に細めると、にこやかにフィリナに笑いかけた。稽古生たちの拍手が二人に向けて注がれる。
そういえばグラーチスは年はどのくらいなのだろうか。御師様と言われるくらいだから、かなり年齢は上……見た目からは想像もつかないが、実はかなりの高齢なのかもしれないな。
「御師様。それで良いのです。セリナには天賦の才があると思っています。わたしは、今後は神官としてではなく、一人の冒険者として、この世界の行く末を見守りたいと思っています。神の包丁焔刃と共に……」
覚悟を決めたように深く頭を下げ、フィリナはグラーチスの前にひざまずいた。
意外な言葉では無かった。
これが彼女の聖なる山での冒険を経て出した、答えなのだろうと素直に思えた。
グラーチスは俺の方にちらりと視線を泳がす。
おそらくは彼からすれば、その答えは分かっていたことなのだろう。
しかしセリナにとっては、まさに晴天の霹靂だ。
稽古生たちにも波が広がるように動揺が伝わっていく。
「焔刃を教会の庇護の下……協力できるならばよし。出来なければ奪えと命じたが……旅を経て得たであろうお前の答えはそれでいいのか」
グラーチスはざわめきを制するように、片手を挙げる。
姉に対して何か言おうとしたセリナは黙って下を向いた。
そのにこやかに笑うような細い眼差しは一見変わらない。しかし間髪を入れず俺に向けられる刺すような魔力の渦。殺気を全く隠そうともせずに、その場に仁王立ちになる。
「御師様! トラジは魔王を退け、その実力は申し分ありません。教会に対して敵対することなどないはずです」
フィリナの悲痛な叫びが道場中に空しく反響する。
セリナは師から放たれた尋常ならざる殺気に反応し、瞬時に身構えてしまっている。
稽古生たちも、突然の成り行きとフィリナの発した事実にどよめきが止まらない。
「お前の答えは分かった。だがまだ儂は信用しておらん。更に我が娘と同義であるフィリナ。共に旅する理由が、そこに居るひとりの男の為だと言うなら話は別だ。焔刃の使い手の力が儂の年老いた目に敵うものか否か。試させてもらうぞ」




