氷雨古廐の邂逅
今回、氷雨視点の話となります。
どうして彼がエリュハルトに転生していたのか、その一端が明かされます。
トラジたちが世界の常識について疑問を抱いた少し前。
王都へと先を急いでいる王国騎士団一番隊の姿があった。
その中にひと際大きな鉄製のキャビンがあり、四頭もの山羊に引かれ、周囲には騎士団の精鋭が物々しい雰囲気で警備に当たっていた。
そして先頭を駆けていく赤髪の騎士団長ジルベニスタの厳しい目線があった。
「ヒサメを、そして凍凪を……早く王都へ」
早山羊に乗りながら隣を走る紫のローブを羽織った魔導師。
タリカ・リーベルナックの大きな胸が、黒いざわめきを感じるように揺れている。
それはこれから王都で起こるであろう、暗き陰謀の一端を予感しているかのようだ。
ガタガタと大きく揺れる鉄製のキャビンの中に、両手を魔導で縛られ、成す術も無く転がる一人の男の胸中には、何が思い出されていたのか。
✛ ✛ ✛
話はここで銀河系の第三惑星『地球』という、エリュハルトとは全く違う星域にあるもう一つの世界での物語――ヒサメの邂逅へとしばし移る。
東京拘置所の面会室。その固い椅子に白く長い髪、どこか青白い表情の一重の男性が座っていた。
彼は自分の目の前にある一枚の複数の穴の開いた強化ガラスの向こうに座った女性に目を移した。
艶やかな長い黒髪、凛とした二重で茶色の瞳。ガラスの向こう側の決して明るくはない照明の中に浮かび上がった女性の姿は、男の中にある既視感を引き起こした。
(似ている。どこか師匠に……)
彼――氷雨古廐の心を支配しているのは強い後悔、弟弟子を殺めてしまったという回顧の念。繰り返し思い出される過去の映像、大きな炎に包まれた蔵だ。
海棠寅次への懺悔と才能に対する嫉妬心。
師匠への強い想い。
永遠に消えることはないであろう痛烈な罪の意識。
「誰です……わたしに何の用があって来たのですか」
そう尋ねられた黒髪の女性は、初めうつむき加減で視線を氷雨には向けずに、自分の膝辺りを泳がせていた。
やがて覚悟を決めたのか、その整った綺麗な唇から声が発せられた。
「源創元の娘です。はじめまして氷雨……さん」
創元の娘と名乗った女性が深々と頭を下げた。
氷雨はくすぶっていた思考が一瞬で氷解するような、そんな衝撃を受けた。
創元師匠に娘さんが!
……いや、確か聞いたことがあった。ドイツへ嫁に出した娘が殆ど帰ってこないと。
日本酒を煽りながら、そうぼやいていた師匠の姿が頭の片隅で邂逅される。
「わたしが虎次君を……申し訳ありませんでした」
なぜあんなことをしてしまったのか。
あの時のわたしはまるで何者かに操られていたかのようだった。
嫉妬や焦燥。
そして得体の知れない黒い衝動。
それが虎次を、そして自分自身をも焦がし尽くしてしまったのだ。
「わたしは虎次さんのことを責めるために、ここまで来たわけではありません」
自分の想いから叩き起こされるかのごとく、彼女が氷雨に言った言葉をすぐさま脳が拒絶した。疑問が頭を駆け巡る。
(責めるために来たのではない? では何のために、わざわざ東京拘置所まで私に会いに来たというのでしょうか)
彼女が口を開く。その整った唇から、分かっていたことだが認識したくはなかった事実が発せられた。
「父、創元は……長い闘病の末に……」
淡々とした、しかし悲しみを湛えた声が、一枚のガラスを隔てて氷雨の鼓膜を短く揺らした。その言葉の重み。氷雨は胸をえぐられるような痛みを覚えた。
「父は最後まで虎次さんのことを、そして氷雨さん……あなたのことを気に掛けていました」
氷雨は表情を凍り付かせる。
強い眼差しを創元の娘に向けたまま動けない。
「私のことを気に掛けていたですと!? 嘘です……そんなことはありえない!!」
その言葉を真っ向から静かに見つめ返す茶色の瞳。
瞳の奥に、確かに創元師匠の想いが宿っているようなそんな気配すら感じ、氷雨は息を呑んだ。
過去の創元との会話が彼の頭の中を駆け巡る。
『古廐。お前の寿司はな、なんだか冷たいんだ。お前は儂の何を見てきたんだ……お前の心がそこに無いからだ! これじゃあ何も儂から学んでいないのと一緒じゃねぇか』
そんな厳しい、だが確かに氷雨のことを想い諭そうとしてくれた師匠の声が、心の中で何度も反芻された。
氷雨の両目から熱いものが込み上げてくるのを止めることができない。
「父からの遺言です」
氷雨の視線は彼女の傍らに抱えられたもの……ガラスの向こうに置かれた古びた桐の箱に注がれる。静かにその蓋が開けられると、中には深く錆びついている一本の包丁が横たわっていた。
錆びついているのに、どこか冷たく鋭利な輝きを放っているかのように。
氷雨は魅入られたように、その錆びついた包丁から目を離すことができなかった。
「『凍凪』と銘打たれた包丁だそうです。虎次さんと共に消えてしまった『焔刃』とは、双子の包丁として創られたものだと、そう父が言っていました」
茶色の二重の瞳が微動だにせずに氷雨を見つめている。
(寅次とともに消えた包丁とは双子のものとして創られた? いったいどういうことでしょうか……虎次はもうこの世にはいないはず)
「わたしにも父の真意はわかりません。しかしこれを貴方に渡すように託されました――貴方がすべきことをして、為すべきようになりなさい――父が貴方にそう伝えて欲しいと」
そこまで言って彼女は言葉を詰まらせた。
(創元師匠! 今の私には何もできない……できないじゃないですか。わたしにどうしろというのですか!)
面会終了のブザーが無情に鳴り響いた。彼女は立ち上がりもう一度深く頭を下げると、静かにその場を後にした。一人残された氷雨は、ただガラス窓の向こうの何もない空間を見つめることしかできなかった。
数日後、氷雨の意識は深い闇へと落ちていくのだ。
焔と凍りの双子の包丁。
創元の死。
そしてその娘から託されたこと。
様々な現実が紡ぎ合い、世界の理が構築されています。
全てが分かるのは、もう少し先の話。
今はトラジたちに視点を戻しましょう。




