幻妖蜘蛛ラスモフィス
洞窟に近づくにつれ、辺りは奇妙な白い絹の繭に覆われていた。
木々の間に張られた頑強なロープのようにみえるもの、それは間違いなく幻妖蜘蛛ラスモフィスの吐き出した糸の塊。触るとかなり粘つきが強い。この糸に手や足を絡め取られたら、動くこともままならなくなるんじゃないかな。
「いいか、事前に打ち合わせた通りだ。奴の腹の目と視線を合わせてしまったら一瞬で魅了されてしまう。ワシかエレノールの合図で必ず目を逸らしてくれ」
ベルガから低く唸るような指示が飛んだ。フィリナとエレノールが短く頷く。
幻妖蜘蛛ラスモフィスは魅了の瞳を持つと注意を促されていた。それならば奴の瞳が開く前の僅かな隙を逃さなければ、危険性は激減する。
大事なのは経験豊富なベルガやエレノールからの合図だ。聞き逃し厳禁ということ。
「相棒。この糸みたいなのが燃えやすいって言っていたやつか」
これはグリューンの言葉だ。エレノールが頭を屈ませて糸を避けながら答える。
「そうよ。だから焔刃の派手な焔の技は厳禁ね。トラジ、あの手を使うのを忘れないでね。そうしないと一面火の海になりかねないわ」
「それは極力避けたいな。火事になって逃げ場を失ったら元も子もない」
自分が異世界転生の起点となったのは、師匠の家の蔵の火事からだ。その時の燃え盛る炎を思い出し、怯えるように身体を小刻みに震わせた。
「この糸を掻い潜って進むのはかなり骨が折れそうね……きゃっ!」
後ろから屈むようにして付いてきていたフィリナだったが、一瞬足を取られたのだろう、顔の高さにぶら下がっていた白い繭に正面から突っ込んでしまった。
俺とエレノールは急いでその繭を取り払いに掛かった。だが、それは驚くほどのしつこい粘り気と、刃物も通さぬような強靭さを備えていた。
これは想像以上にタチが悪そうだ。
口や鼻、耳の中にまで蜘蛛の糸が入り込んでしまったのだろう。フィリナは口の中にまで絡みつく糸を必死に吐き出し、涙目になりながら激しくむせ込んでいた。
洞窟内は糸が張り巡らされてはいたが、二人が並んで歩けるような広さの通路となっていて、そのまま奥まで続いている。暗がりに映えるように白い繭が点在し、それが不気味さに更に拍車を掛けていた。
『導きの光』
俺が『灯火』を唱えようとするのをエレノールが右手を上げて制する。彼女の短杖が光り輝き、手元で瞬時に魔紋が形成される。
危ない……焔を使うわけには行かないんだった。どうしても癖で唱えてしまいそうになるなぁ。
「ちっ! いくらなんでも糸の量が異常だ。磁場の乱れが思ったよりも大きかったか! これだけの糸が張り巡らされていては大斧が役に立たん。少し状況を見誤ったな」
斧を背中に戻すと、低い唸り声を上げるようにして一気に筋肉を躍動させた。
獣人化だな。斧での攻撃が厳しい状況なので筋肉だけで対応するつもりと見た。
その時、グリューンが短い警告の声を上げながら洞窟の奥を指差した。
「気を付けろ! 向こうから大きな魔力をもった奴が出てくるぞ」
神の包丁を抜き放ち魔力を込める。もちろん創り出すのは単純な『焔の剣』ではない。
事前の打ち合わせの中で、ベルガのアドバイスから発想した新しい技だ。
しかし集中するような暇を相手は与えてはくれなかった。
エレノールの短杖の光に照らし出され、洞窟の奥から壁を引っ掻くようにして姿を現したもの。俺の知ってる蜘蛛とは明らかに違い、10本もある曲がりくねった細い脚。パキパキと音を立てながら、糸を器用に巡るようにして前に進んできている。
おそらくは先ほどフィリナが糸に引っ掛かった振動が伝わり、蜘蛛が臨戦態勢に入ったのだろう。
「腹の目に気を付けてね。タイミングが大事よ」
エレノールが振り絞るような声で警告する。
聞いた通りにラスモフィスの腹辺りに、巨大なひとつ目を思わせる器官がある事を確認する。
「ああ、分かっている! トラジ、一気に近づいて奴の目を潰すぞ!」
獣人化を済ませているベルガが大きく吠えた。腕に筋肉を集中させ、太さが二倍ほどに膨れ上がっている。その拳で殴り掛かられては、並みの生物であれば大抵倒されてしまうんじゃないかな。
その直後だった。ラスモフィスの腹にある魔紋のような瞳が静かに開いていくのを目の端に捉える。
「みんな! 目を逸らして!」
再度、エレノールの悲鳴に似た声が洞窟内に反響した。俺とベルガは作戦通り蜘蛛の腹にある巨大な目から視線を背けるようにして、両目を腕で覆った。
だが、そのエレノールの合図は……何故かフィリナには届いていなかった。
「ギギギギ……ギニャアアアア!」
歓喜とも取れそうな、蜘蛛の足が擦れ合うような音が耳に流れ込んできた。
両目を開いた俺たちの前に展開された信じられない光景。
足を引きずるようにして体を左右に揺らしながら、ラスモフィスを庇うかのように前に立つ女性の姿。それは他の誰でもない、拳に力強い魔力を込めたフィリナだった。
「嬢ちゃん! エレノールの合図が聞こえなかったのか!」
グリューンが慌てふためくようにして頭の上で騒ぎ散らかす。フィリナの瞳はどこか虚ろで、まるで何も見ていないかのように全く視点が合わない。
「フィリナ! そうか、さっきの蜘蛛の糸が耳に……なんてことなの!」
エレノールの言葉にすぐさま状況を把握した。さっきラスモフィスの繭に絡まった時に、耳の中にまで糸が入り込んでしまって取りきれていなかったんだ。
「これは厄介なことになったぞ」
眉間に深く皺を寄せるようにして、野太い声を出した。
俺は焔刃を構えつつ、少しずつ後ろに下がる。エレノールは魔紋の錬成が止まってしまっていた。
(まさかこんなことになるなんて。どうすりゃいいんだ)
洞窟の中に、幻妖蜘蛛ラスモフィスの愉悦の声が上がった。




