危険な夜
その日の晩、私はいつも通り8時ごろに帰宅した。無論、「ただいま」と言っても、2人の娘たちは駆け寄ってきてくれない。昔は「おかえり、パパ!」と出迎えてくれる2人の笑顔を見るだけで、仕事の疲れが吹き飛んだのだが、それはもはや淡い思い出である。
リビングに入ると妻の美恵子が私の上着を受け取ってくれた。相変わらず、マツコ・デラックスを縮小したような体つきである。この時点で私は違和感を持った。何故か。リトル・マツコが「化粧」を施していたからだ。不思議に思いつつも私は食卓に着く。並べられたおかずを見て、思わず「何っ!?」とつぶやいてしまった。
食卓に「生春巻き」が置かれていたからだ。おそらく晩御飯のおかずが「生春巻き」なのは3年ぶりくらいのことであろう。「生春巻き」、それは、美恵子が私に送る秘密のサイン。その内容は、「今夜、抱いて」。
娘が生まれてから、美恵子と私はこの秘密のサインをつくった。しかし、私ももう48歳である。美恵子も46歳だ。ここ数年は全く食卓に並ぶことのなかった「生春巻き」がまさか再び姿を現す日がやってくるとは。
私はおそるおそるリトル・マツコの方を見た。向こうもこちらの様子を覗っていたのか、思わず目が合ってしまった。軽くほほ笑んで照れくさそうに顔を伏せるリトル・マツコ。
…「抱け」と言うのか!その巨体を。私はショックのあまり食事がのどを通らなかった。その代わり、今までにない速度で頭を回転させていた。どうすれば、「回避」できる?この「危機的状況」を!そんな私の様子を見て、リトル・マツコはビールを片手に私の横の席に腰かける。
「今日も一日お疲れ様。はい、ビール。」
そう言って、コップにビールをついで渡してくれた。普段はこんなこと全くしない癖に!
「あ、ああ。ありがとう。ところで、千春と美沙紀はどこに居るんだ?塾か?」
すると、リトル・マツコは私の肩に手を添えてささやいてきた。
「あら、忘れたの?今日は美沙紀は陸上部の合宿で、千春は修学旅行じゃない。」
そうだった。最近のストレスですっかり忘れていたが、確か、そんな話をしていた。千春は美恵子を通して私にお小遣いを要求してきたし、美沙紀は私のワイシャツと一緒に洗濯してしまった自分の体操着に入念にファブリーズをかけていた。
「そう言えば、そうだったな。イヤー、今日は疲れたなあ。明日のために早く休もうかな」
先に、「逃げ」の一手を打っておいた。しかし、リトル・マツコはもろともしない。私の顔をじっくりと見つめ、甘い声で囁いてきた。
「…今夜は、2人きりね。」
こいつ、本気か!?と言うよりも、それ以上その二重あごのを近づけないでくれ。どれだけだらけた生活をしたら、「安西先生」のような顔肉を得られるのだ。私は無理やり食事を口の中に詰め込み、その場を離れることにした。
「ごちそうさま。」
席を立とうとしたその時、リトル・マツコは不意に私の腕をつかんだ。…おい、お願いだから上目づかいはやめてくれ。
「この後、お風呂にする?まだ、飲む?それとも…」
マツコははにかんだ。うぶな10代の少女のように。しかし、彼女の外見は太った中年のおばさんである。その如何ともしがたいギャップが私に津波のようなストレスを与える。
「ええと、じゃあ風呂に入ってくるよ」
そう言った私の腕をまだ離そうとしないマツコ。彼女は顔を赤らめながらいった。
「じゃあ、ベッドで待ってるから。永久に。」
ぐわああああ!!!!!危うく、私は妻をぶん殴りそうになってしまった。おそらくは最近ハマっている韓流ドラマのセリフのまねなのだろう。だが、このセリフを言い終えた後の少しドヤ顔をしているマツコは私のキャパシティーを超えていた。
その場で深呼吸を数度繰り返し、私は握りしめた右手を必死で抑えつけながらも風呂場へ向かった。
私は必死だった。あらゆる手を尽くした。しかし、マツコはそれ以上に本気だった。すべての状況をセッティングしていた。結局、万策尽きた私は、その晩マツコを抱いた。翌朝、布団の隣で豪快にいびきをかく肉だるまをみて、私は少し、死にたくなった。
こうして、私は心に深い傷を負いながらも、なんとかこの「危険な夜」を耐えた。しかし、「不幸」とは続けて発生するものである。第二の事件は取引先の会社で起きた。マツコを抱いた翌日、私は「ヅラ」の部長と共に契約更新のため相手会社に出向くことになっていた。この日、私はさらなる「困難」に直面することとなるのだ。




