ミッション・インポッシブル
リトル・マツコと化した妻を3年ぶりに抱いた翌朝、私は気だるさを感じながらもいつも通り8時45分に出社した。
自分の席に座ると同期の松沢がわざわざ隣の部署から私を尋ねてやって来た。
「おい、平田。お前、今日、室井部長とひまわり商社に契約更新に行くんだってな。」
「ああ。でも、あれは形だけの毎年、今年もよろしくお願いしますね、という挨拶みたいなものだ。」
私が楽観的にそういうと、松沢は眉間にしわを寄せ、声をひそめて言った。
「今回の相手の担当者は芹沢次長らしいぞ。」
「何?…あの『閻魔』の芹沢か!?」
ひまわり商社とは、わが社の最大の取引会社で年に数度、交流会を行うほどの仲だ。その交流会の打ち上げで、ひまわり商社の社員から何度も耳にしたことのある伝説。『閻魔』の芹沢。曰く、遅刻の理由に嘘をついた新入社員にコーヒー(ホット)をぶちかけたとか、収支報告書で虚偽の記載をした自分の上司に真っ向から噛みついたとか。とにかく、「偽り」や「ごまかし」が嫌いな男なのだ。しかし、と私は思う。
「しかし、今回の契約更新は別に何かをごまかすわけではないし、問題はないだろう」
「閻魔」は正直なものに対しては、ただの善良なオジサンだ。
「ああ。出向くのがお前一人だけならな」
松沢の言葉を聞いたとたん、私の脳裏に部長の頭上に突如降臨した黒い物体がよぎった。
「はっ…!部長か。『閻魔』が部長の『ヅラ』に気付かないわけが無い。そして、気付いたら…」
「ああ、自分を偽るものと契約など更新せんわ!と、言いだすだろうな。いいか、ひまわり商社はわが社の最大のパートナーだ。この契約更新が万が一失敗することがあれば、間違いなくわが社はつぶれる。つまり、わが社の行方はお前にかかっているんだ」
やめてくれ!胃が痛くなる。なんでこんなに「困難な状況」が立て続けに起こるのだ。私が頭を抱えていると、松沢は構わず続けた。
「今日のお前に与えられたミッションは、『ひまわり商社にたどり着く前に室井部長のヅラをとれ』だ。わかったな」
そういうと、松沢は私の肩をポンとたたき、自分の部署へと戻って行った。そんな松沢と入れ違いで部長が出社してきた。自然、私の視線は部長の頭に行く。もちろん、そこには「ヅラ」が威風堂々と乗っかっていた。
あの「ヅラ」をとれ、だと?くそ、松沢の奴、人事だと思って簡単に言いやがって。どうすればいいのだ。これはまさに「ミッション・インポッシブル」ではないか!私にトム・クルーズ並みの活躍を期待しないでくれ。
内心で松沢のぐちを垂れつつも、私は部長とともに会社を出た。現在時刻9時30分。ひまわり商社との約束の時間は11時00分。つまり、私に残された時間は残り90分しかない。
私は電車で自分の隣に座る部長を見る。うむ。一目で「ヅラ」と分かる、見事な「ヅラ」だ。不自然な生え際、ボリューム、色。この「ヅラ」は全力で自分がヅラだと自己主張している。少しは自重しろ!見てみろ、正面に座っている女子高生がクスクス笑っているではないか。
しかし、部長は全く気にしていない。というよりも、自分の「ヅラ」に誰もが気付いていないと確信している様子だ。くっ、どうしたらいい?とりあえず、ジャブを入れてみるか。
「いやー、今日は暑いですね。日中には28度まで上がるそうですよ」
「そうだな。この暑さには参ってしまうよ」
部長は相変わらず渋い声で答える。本当にこの人は高倉健似のいい男なのに、なぜ今更ヅラなんか。私は苦々しい思いを胸に深く切り込んでいく。
「本当、こんなに暑いと髪でも切ってサッパリしたいところですよ」
さあ、どう答える!…頼む!頼むからここでカミングアウトしてくれ!自分は実は「ヅラ」なのだと。
「そうだな。おれもサッパリ切ろうかな」
そんな、バカな!あっさりと流しやがった。…ヅラを、ヅラを切ると言うのか?
言葉を失った私は呆然と部長のヅラを凝視してしまった。そんな私の視線に気付いたのか、部長は訝しむ。
「どうした?おれの頭に何かついているのか?」
ヅラだよ!!とは言えない弱気な私は、いえ、と言ってお茶を濁す。
どうしたらいいのだ?部長は「確固たる決意」のもとヅラをつけている。もはや、言葉で説得できる領域を超えている。
…そうか、私に残された手は「実力行使」しかないのか。問題は、タイミングだ。おそらく、私が部長のヅラを払い取っても、確固たる信念を持っている部長は何の躊躇もなく再びヅラを装着するだろう。ここまできたら、ヅラを消去するしかない。
問題はタイミング。わが社が生き残れるかどうかもすべて、このタイミングにかかっている。
電車が次の駅に近づいてきて速度を落としている。ひまわり商社の最寄り駅だ。われわれはこの駅で降りることになる。
心臓の音が高鳴る。思えば、私は一発勝負には強い方だった。受験も、プロポーズも一発で決めてきた。
電車がゆっくりと停止する。部長が降りるぞ、と私を促す。私は頷いて部長の後ろに続く。
全神経を自分の右手に集中させる。チャンスはこれ一度きりだ。
電車の出口に近付いてきた。
私は部長の真後ろの位置をキープし続けている。
部長が完全に電車から降りた。まだだ。もっと溜めろ。
そして、私も完全に電車から降り、ホームで待っていた人々が電車に乗り込みだした。
このタイミングだ!!
私はえも言わせぬ速さで自分の前を歩く部長の後頭部をわしづかみにし、渾身の力で「ヅラ」を取り去った。部長が驚いた顔で、振り向く。私は何も言わずにヅラを電車内に投げ込んだ。部長が追いかけようとするが、残念ながら電車の扉が音を立ててしまった。そして、電車はそのまま、部長のヅラを乗せて走り去って行った。
その瞬間の部長の悲しげな顔を私は生涯忘れることができないだろう。自分のかつらを見送る寂しそうな部長の横顔を見て、私の脳内では「ドナドナ」が流れていた。
ドナドナドーナドーナー 電車は行ーくーよ
ドナドナドーナドーナー かつらを乗ーせーて
そして、私たちは無事、「閻魔」芹沢と契約更新することができた。無論、それから先、部長が私と口を聞いてくれなくなったのは言うまでもあるまい。
こうして、私は人生史上もっとも困難な2日間を乗り切ることができた。「耐える」ことが唯一のとりえの「耐える男」としての面目も躍如されたことであろう。




