第三話 どうして殿下はわたくしを見ていらしたのですか
袖に広がった染みを確かめたあと、ミラはほっとしたように顔を上げた。
「大丈夫です。冷めていましたし、すぐに洗えば落ちると思います」
「……随分と余裕ですのね」
「火傷をしませんでしたから」
「そういう意味ではありませんわ!」
「えっ」
「本当に気に入りませんこと。わたくしが王太子妃となった暁には、オーウェン家の者が今までどおり王宮へ出入りできるとは思わないことね」
「王太子妃になられるのですか?まだ正式には伺っておりませんが」
悪意など欠片もなく返した一言で、グレイスの顔が引きつった。
「っよくもぬけぬけと!あなたが邪魔をしているのでしょう!」
「何もしておりません」
「嘘をおっしゃい。殿下が、あなたのことばかり見ているではありませんか!」
「それは、彼女に問うことではない」
柱の陰から姿を見せると、グレイスの顔から血の気が引いた。
「で、殿下……」
「今のは、手が滑ったようには見えなかった」
「違います。わたくしは本当に……」
「……あ、今のは嫌がらせでしたの?」
濡れた袖とグレイスの顔を交互に見比べている。
「気づいていなかったのか」
「少し不注意な方なのだと思っておりました」
「この女……わたくしを馬鹿にして!」
「しておりません。本当に分からなかったのです」
それが嘘ではないと分かるだけに、周囲で様子を窺っていた令嬢たちから、堪えきれない笑いが漏れた。
「ミラは、引いたふりなどしていない。私に想いを告げたあと、本当に何も求めず、そばから離れた」
「では、なぜ殿下はその方ばかり見ていらっしゃるのですか!」
「私が勝手に目で追っているからだ。彼女が誰かと話していれば、何を話しているのか気になる。他の男と踊っていれば、面白くないと思っている。すべて私自身の問題であって、彼女に責められる理由はない」
近くにいた者たちが、驚いたようにこちらを見た。
言ってしまってから、どれほどのことを口走ったのかに気づいたが、もう取り消せない。
「ですが、わたくしはヴァンドール侯爵家の娘です。王太子妃は恋情ではなく、家柄と政治的均衡を重んじて選ぶべきではありませんの?わたくし以上にふさわしい令嬢など……」
「家柄も政治的均衡も重要だ。その考えは変わらない。だが、それだけで妃が務まるとは考えていない」
まっすぐグレイスを見据えた。
「家の力を自分の力と取り違え、立場を盾に罪のない相手を傷つける者を、国母にはできない」
「そんな……」
「私も、家柄だけで人を見て、目の前にいる相手を見ようとしなかった。その点については、私の過ちだ。だが、私の過ちを君の免罪符にはさせない」
周囲には、茶をこぼした瞬間から見ていた令嬢も侍女もいる。
新たに証拠を探す必要などなかった。
「本日をもって、君を王太子妃候補から外す。この場での振る舞いは父上にも報告する。少なくとも、今後私の主催する場へ招くことはない」
「殿下、どうかお待ちください。わたくしはただ、殿下をお慕いして……」
「想いは、誰かを傷つけてよい理由にはならない」
反論する余地もなくなり、グレイスは侍女に伴われてその場を去った。
後日、父王からも王太子妃候補の除外が正式に認められた。
王宮での振る舞いを知ったヴァンドール侯爵は娘を領地へ連れ帰り、当面の間、社交の場へ出さないことを決めたという。
騒ぎが収まると、ミラが濡れた袖をつまみながらこちらを見た。
「助けていただき、ありがとうございます」
「君は、あれを嫌がらせだとも思っていなかったようだが」
「今になって考えれば、以前にも似たようなことを言われた気がします」
「以前にも?」
「伯爵令嬢は身の程を知るべきだ、と以前にも言われました……」
「なぜ報告しなかった」
「わたくしに王太子妃を望む資格がないという意味だと思い、特に反論しませんでした」
「そんなわけがあるか」
「そうでしょうか?今でも、わたくしはそう思っておりますが」
どこまでも真面目な顔で答えられ、怒る気も失せてしまった。
「ところで、殿下がわたくしを見ていたせいで、絡まれたようなのですが」
「……すまない」
「できましたら、今後はもう少し目立たないように見ていただけますか」
「努力はする」
「できないお顔をなさっていますね」
周りの視線が徐々に多くなってきたことに気が付き、ミラの手を引くと隣の控えの間へ移る。
扉が閉まるのを待ってから、彼女は改めてこちらを見つめてくる。
「どうして殿下はわたくしを見ていらしたのですか」
「それは……」
「他の方と話していると、何を話しているのか気になるともおっしゃいました」
「言ったな」
「他の殿方と踊っていると面白くない、とも」
「……言った」
「では、その理由を伺ってもよろしいですか」
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