第五話
放課後。
歩の家。
「会議を始めます」
結衣は机の上にノートを広げた。
「本当にやるのか」
「やるの」
真剣な顔だった。
「はいはい」
「返事が軽い」
「はい」
「それも軽い」
「めんどくさいな」
「歩」
「はい」
歩は素直に姿勢を正した。
◇
「まずは一番差し迫った問題」
結衣がノートを開く。
「体育」
「あー……」
歩は机に突っ伏した。
「嫌そうな顔しない」
「嫌なもんは嫌だ」
「でも考えないと」
「分かってる」
「次の体育は来週」
「もう来週か」
「もう来週なの」
結衣は真顔だった。
◇
「今回みたいに保健室で休む?」
「毎回は無理だろ」
「よね」
「健斗が毎回運ぼうとするし」
「……」
「……」
二人は同時にため息を吐いた。
「却下だな」
「却下ね」
◇
「トイレで着替えるのは?」
「トイレ?」
「休み時間に体操服に着替えておくの」
「……」
「その上から制服を着る」
「なるほど」
「体育の時間になったら、更衣室では制服を脱ぐだけ」
「体育終わったら?」
「制服を着て、トイレで体操服から着替える」
歩は少し考える。
「……」
「どう?」
「めんどくさいな」
「仕方ないでしょ」
「まあ」
歩は頭をかいた。
「制服脱ぐだけなら何とかなるか」
「じゃあ、当面はこれで」
「おう」
◇
「毎回ちゃんとトイレで着替えるのよ?」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「不安しかない……」
結衣は本気でそう思った。
◇
「……でも」
結衣はノートを閉じた。
「まだ問題がある」
「まだあんのか」
「ある」
「何だよ」
結衣は少し真剣な顔になった。
「歩」
「ん?」
「自分がどれだけ危ないか、自覚した方がいい」
「……何の話だ?」
「鏡見て」
「は?」
「いいから」
結衣は部屋の隅にある姿見を指差した。
「ほら」
「何だよ」
「いいから」
歩は面倒そうに立ち上がった。
◇
鏡の前に立つ。
さらりと揺れる黒髪。
柔らかい顔立ち。
細くなった顎。
長い睫毛。
改めて見ても。
男には見えなかった。
「……」
「どう?」
「どうって」
「何か思わない?」
「別に」
「歩」
結衣の声が低くなる。
◇
「今の歩はね」
結衣は鏡を指差した。
「可愛いの」
「は?」
「可愛いの」
「待て」
「か、わ、い、い、の!」
「わかった!」
歩は思わず声を上げた。
「わかったから!」
「本当に?」
「たぶん」
「絶対分かってない!」
結衣は頭を抱えた。
「いい?」
結衣は真剣な顔になる。
「今の歩は、可愛い女の子なの」
「……」
「その可愛い女の子が」
「うん」
「今までみたいにベタベタしてきたら?」
「……」
「好きになるでしょ!」
「ならねぇだろ!」
歩は即答した。
「なるの!」
結衣も即答した。
「絶対なる!」
「ならん!」
「なる!」
「ならん!」
話は平行線だった。
◇
「歩」
「なんだよ」
「今までは男同士だからよかったの」
「おう」
「でも、今は違う」
「……」
「だから距離感には気をつけなさい」
「……」
歩は少し考えた。
「じゃあ、距離取ればいいのか?」
「そういう問題でもないんだけど……」
結衣は頭を抱えた。
「とにかく!」
「おう」
「少しは自覚しなさい!」
「分かったって」
「本当に?」
「……善処する」
「不安しかない」
結衣は本気でそう思った。
◇
気付けば、外は少し暗くなっていた。
「じゃあ、今日は帰るわ」
「おう」
「何かあったら連絡して」
「分かった」
「本当に?」
「たぶん」
「だからそこ!」
結衣はため息を吐いた。
「じゃあね」
「おう」
玄関のドアが閉まる。
家の中が静かになった。
◇
「……」
歩は自室へ戻った。
ふと。
姿見が目に入る。
「……」
結衣の言葉を思い出す。
可愛い。
距離感。
好きになる。
「分からんな」
頭をかいた。
結局、自分ではよく分からなかった。
◇
「なぁ母さん」
「なにー?」
リビングから声が返ってくる。
歩は少し迷った。
そして。
「俺って可愛いのか?」
ガシャーン!!
盛大な音が響いた。
「えっ」
「今なんて言ったの!?」
母親がものすごい勢いで飛び出してくる。
「だから」
歩は少し困ったように頭をかいた。
「俺って可愛いのか?」
数秒。
沈黙。
そして。
「待ってて!!」
「え?」
「絶対その場から動かないで!」
「なんで」
「いいから!!」
母親は猛ダッシュで部屋へ消えていった。
「……?」
歩は首を傾げる。
嫌な予感しかしなかった。
そして、この時の歩はまだ知らない。
数分後。
自分が、母親の着せ替え人形にされる運命を。
◇
「歩!」
母親が両手いっぱいに服を抱えて戻ってきた。
「え?」
「さぁ着替えましょう!」
「いや、何それ」
歩は嫌な予感しかしなかった。
「歩」
母親は真剣な顔をした。
「お母さんね、ずっと我慢してたの」
「何を?」
「いつか娘ができたら着せたかった服」
「待て」
「待たない」
「待てって」
「待たない!」
歩は額を押さえた。
「なんでそんな必死なんだよ」
「お願い!」
「……」
「一回だけ!」
「……」
「お願い!」
「……」
「一回だけだからな」
「やったー!!」
◇
「ほら!」
母親は服を歩へ押し付けた。
「着替えてきて!」
「……」
「本当に一回だけだからな」
「うん!」
「絶対だからな」
「うん!」
「……」
信用できなかった。
◇
数分後。
「……」
歩は部屋のドアを開けた。
「母さん」
「んー?」
「着替えた」
数秒。
沈黙。
「……」
「……」
「……」
「キャーーーーー!!!」
「うわっ!?」
「可愛い!!」
母親は両手で頬を押さえた。
「歩!?」
「歩よね!?」
「他に誰に見えんだよ」
「可愛い!!」
「うるさい」
「可愛い!!」
「それしか言えないのか」
「言えるわよ!!」
◇
歩は姿見の前へ立つ。
淡い色のワンピース。
ふわりと広がるスカート。
袖口の小さなフリル。
柔らかな生地。
さらりと揺れる黒髪。
鏡の中には。
どう見ても。
女の子がいた。
「……」
ぽつりと。
言葉が漏れる。
「可愛い」
「……え?」
数秒。
「誰?」
鏡の中の少女も。
不思議そうに首を傾げた。
「……」
「……」
「あ」
歩は瞬きをした。
「……俺か」
「どう!?」
母親が嬉しそうに身を乗り出す。
「歩!」
「なんだよ」
「可愛いでしょ!?」
「……」
歩はもう一度鏡を見る。
「……」
「可愛い……のか」
「可愛いわよ!」
「……」
「歩?」
「いや」
歩は頭をかいた。
「まだよく分からん」
「でも」
「……?」
「鏡の中のやつは可愛いな」
「歩よ!!」
「俺……なんだよな…」
「そうよ!!」
「……」
「……」
「……不思議だな」
「何が?」
「自分のことなのに、他人みたいだ」
「それは……まあ、急には慣れないわよね」
◇
答えはまだ出なかった。
結衣は「可愛い」と言った。
母親も「可愛い」と言った。
鏡の中の少女も。
確かに可愛いと思った。
「……」
「俺なんだけどな」
歩は苦笑する。
それでも。
少しだけ。
結衣があれほど必死になっていた理由が分かった気がした。
――少しは自覚しなさい。
「……善処するか」
誰に聞かせるでもなく呟いて。
歩はもう一度、鏡の中の自分を見た。




