■第89話 交渉
私たちは谷より少し手前で馬車を降り、ここからは徒歩で向かう。
馬車を降りると、ひんやりとした空気が肌を包み込んだ。谷全体を覆う白い霧は想像以上に濃く、少し先の木々さえぼんやりとしか見えない。
「本当に何も見えませんね……」
「うむ。この霧こそが白羊の縄張りじゃ」
アルテシアが谷の奥を見つめながら頷く。
「この霧には少しだけ魔力が混じっておる。方向感覚を狂わせるほどではないが、姿を隠すには十分じゃ」
確かにこんな場所なら、臆病な魔獣にはぴったりの住処かもしれない。
「でもこれ、霧の中に入るのは危険ですよね?」
「うむ、しかし向こうから出てはこんじゃろうからのぅ」
どうしたものか考えていると、クロが歩み寄ってきた。
「主、バスケットを出してくれ」
「えっ、今? ここでおやつ食べるの?」
「そうではない」
「うーん、まぁいいけど」
私は朝受け取ったバスケットを取り出した。
クロはその中の一つを選ぶと、蓋を開ける。
のぞき込んでみると草の香りがする濃い緑色のクッキーが入っていた。
「えっ、なにこれ? 草?」
「うむ、やつは草が好物なのだ」
「あっ、これアルファルファクッキーか!」
前世でも見たことがある。アルファルファを混ぜて焼いた、うさぎやモルモットなどの小動物用のおやつだ。
「白羊はこの匂いが大好きなのだ。これを使っておびき出す」
「なるほど、すごいよクロちゃん!」
「うむ、作ったのはモニカだがな」
「そうなんだ、モニカもありがとう。これならなんとかなるかも」
「いえいえ、それだけではなくこちらも使ってください」
モニカがもう一つのバスケットを開く。
「これ、アップルパイ?」
「はい、羊はリンゴが好物ですのでこちらもどうぞ」
「おお、ありがとう」
少し原始的な方法ではあるけど、これならおびき出せるかもしれない。
さっそく谷の入り口にクッキーを置いてみる。
しばらく待っていると霧の向こうで、スッと何かが横切った。
一瞬だけ、うっすらと雪のように白い毛並みが見えた。
「あれが……!」
しかし私が声を漏らした瞬間。
――ピュンッ!
白い影は風のような速さで霧の奥へと駆け去ってしまう。
「あっ、逃げた!」
「言ったじゃろう? あやつはとにかく臆病なんじゃ」
アルテシアが肩をすくめた。
思った以上に素早いんだな。気配を消すのも上手いし、これじゃ追いかけるのも無理そうだ。さて、どうしたものかと考えていると――。
クロがアップルパイの入ったバスケットを持って前に出た。
「えっ、クロちゃん?」
「我に任せておけ」
クロはポンッと小竜姿になる。
「白羊よ、我は黒龍。姿を見せよ」
クロが霧に向かって声を掛けた。
すると。
「黒龍? 何しに来たんだ?」
霧の中から中性的な声が聞こえてきた。
白羊も普通に喋るのか、しかしそれにしても想像とかなり違う声だな。
「貴様にいい物を見せてやろうと思ってな」
そう言ってクロはバスケットの蓋をあげる。
「甘い匂い……それは、リンゴか?」
霧の中から白い巨大な羊が顔を出し、警戒するようにこちらを見つめていた。
全身を覆う雪のように白い毛並みは光を浴びると七色に輝いていた。
頭には美しく湾曲した二本の角が生えている。
体長は三メートルほどだろうか。
その姿は神々しいほど美しかった。
「ほぅ、出てきおったか」
アルテシアが感心したように呟く。しかし白羊は私たちには近づかず、視線だけはバスケットへ釘付けになっていた。
「……本当にリンゴなのか?」
「うむ。甘く煮たリンゴを包んだアップルパイという物だ」
クロが一切れ取り出す。
ふわりと甘い香りが辺りに広がった。
「ごくっ……」
……今、絶対につば飲み込んだよね?
「食べたければこちらへ来るのだ」
「む、無理だ! 人間がたくさんいるじゃないか! 大体なんで黒龍が人間と一緒にいるんだ?」
やっぱり相当臆病なんだ。
でも逃げないってことは、かなり食べたいんだろうな。クロはニヤリと笑うと、アップルパイを地面へ置き、自分だけ数歩後ろへ下がった。
「ふむ、これならどうだ?」
白羊は周囲を何度も確認しながら、一歩、また一歩と近づいてくる。
そしてアップルパイの匂いを確認し――パクッと食べた。
「う、うまい……なんだこれは!」
「フフフッ、貴様は知らんだろう。食べ物は調理するとこんなに旨くなるのだぞ」
「調理?」
「我は今あそこにいる主に従っている。貴様も主の従魔になれば旨いものがたくさん食えるぞ」
「なんだって、でも……従魔になるなんて」
するとルーナが一歩前へ出る。
「白羊さん、少しお話を聞いていただけませんか?」
「人間! それ以上近寄るな!」
白羊は思わず一歩後ずさる。
「安心してください。私たちはあなたを傷つけるつもりはありません」
「みんなそう言うんだ! どうせボクの毛が目当てなんだろ」
白羊はルーナを睨みつけた。
もしかして過去に毛を狙って襲われたことが何度もあるから、こんなに憶病になったのかな?
「そんなことありません、私たちはあなたと仲良くなりたいと思っています」
ルーナは手を組みまっすぐ白羊を見つめる。
「仲良く……?」
白羊が不思議そうに首を傾げる。
「はい、私は聖女ルーナ。あなたを絶対に傷つけないと誓います」
クッキーを一枚手に取りそっと差し出す。
「これは、草か?」
「ええ、牧草を固めて焼いたものです」
「食べていいのか?」
「はい、どうぞ」
白羊はしばらくクッキーを見つめていた。
警戒しているのか、なかなか口をつけようとしない。
「……本当に大丈夫なのか?」
「はい」
ルーナは笑顔で頷く。
「……変な人間だな」
「ふふっ、よく言われます」
ルーナが微笑むと、その表情を見て白羊は少しだけ警戒を解いた。
そして鼻を近づけて匂いを確かめると――パクッと頬張った。
白羊の目が大きく開かれる。
「おいしい……」
小さく呟いた。
「こんな味の草は初めて食べた」
「ふふ、それはモニカさんが作ってくれた特別なものなんですよ」
白羊はもう一枚、そしてまた一枚とクッキーを食べていく。
さっきまで怯えていた姿が嘘みたいだった。
「……君が、黒龍の言っていた主なのか?」
白羊が不意に私に話しかけてきた。
「え?」
「黒龍は君のことを、とても信頼しているように見える」
それを聞いてクロは満足そうに頷く。
「うむ、ようやく話を聞く気になったか」
「でも、従魔になるかはまだ決めてないぞ!」
「分かっている、主は無理やり従わせたりはせん」
その言葉に、白羊は少し驚いたような顔をした。
「うん、無理には言わないけど。あなたにルーナさんを守ってもらいたいんだよ」
私はゆっくり近づき声を掛ける。
「……ボクが、人間を守る?」
白羊は信じられないというように目を丸くした。
今まで誰一人、自分自身を必要だと言ってくれた者はいなかった。
近づいてきた者は、皆この毛だけを欲しがった。
誰もボク自身を見てはくれなかった。
「うん」
私は静かに頷く。
「ルーナさんは聖女なんだけど、とても優しい人なの。だからこそ狙われることもあるんだよ」
「狙われる?」
「そう、悪い人たちにね」
白羊は少し考え込むように視線を落とした。
「でも……ボクは戦うのが苦手だ」
「戦えなんて言わないよ。あなたの力を貸してほしいだけ」
「力を……?」
「あなたはすごい防御力を持ってるんでしょ? ルーナさんの盾になってくれるだけで十分なんだ」
白羊は自分の白い毛並みを見下ろした。
「ボクの力が……誰かの役に立つのか?」
「もちろんじゃ」
今まで黙っていたアルテシアが口を開く。
「おぬしの守りは四大魔獣でも随一じゃ。だからこそ皆、おぬしの毛を欲しがる」
「それは……」
「じゃが、クレアたちは毛ではなく、おぬし自身を必要としておる」
白羊は驚いたように私たちを見回した。
その瞳から、先ほどまでの強い警戒心は少しずつ薄れていた。
しかし毛か、確かにあの毛はふわふわでクッションとかにしたら気持ちよさそうだ。
「あっ、この毛で枕を作ったら気持ちよさそう……」
思わず考えてることが口からポロっと出てしまった。
「やっぱり毛が目当てじゃないかぁー!」
白羊は飛び上がるように後ずさった。
「クレアさん?」
ルーナが私を見る、笑顔だが目が笑っていない。
「い、いや違う! 確かにふわふわで気持ちよさそうだとは思ったけど、無理やり刈ったりしないから!」
「本当に?」
「うん、でも自然に抜けた毛ならちょっと欲しいけど」
「やっぱり欲しいんじゃないかぁ!」
「……クレアさん?」
ルーナが真顔になっていた。




