■第66話 新たな目的地
温泉を満喫した私たちが帰ろうとしていると、従業員が総出でお見送りに来てアリスに頭を下げていた。
「アリスレート殿下、どうぞまたお越しください」
「ええ、とてもいいお湯でしたわ。ありがとうございました」
アリスが笑顔で一礼し、私たちは宿を後にした。
「はぁ……いいお湯だったね」
「ええ、体もすっかり軽くなりましたわ」
アリスも珍しく心からリラックスしたような表情をしている。
温泉街の石畳を歩いていると、不意に前の方が騒がしくなった。
「誰か! 治癒魔法を使える方はいませんか!」
そんな慌てた声が響いた。
「えっ?」
私たちは顔を見合わせると、急いで人だかりの方へ向かった。
そこには荷車が横倒しになり、果物が辺り一面に散らばっていた。
その傍らで、一人の男性が足を押さえて苦しそうに座り込んでいる。
「どうしました?」
ルーナがすぐに駆け寄る。
「荷車の車輪が外れてしまって……」
男性の足首は赤く腫れていた。
「大丈夫ですよ、すぐに治りますから安心してくださいね」
ルーナはそう言って男性の前にしゃがみ込み、手をかざす。
「《ヒール》」
淡い光が男性の足に降り注ぐ。
すると腫れが少しずつ引いていき、男性は恐る恐る立ち上がった。
「お、おお……痛くない!」
「ふふ、よかったです。でも無理はなさらないでくださいね」
ルーナがほっとしたように息をついた。
「ありがとうございます!」
男性は何度も頭を下げた。
「怪我は大丈夫そうだね。じゃあ今度はこっちかな」
私は散らばった果物を拾い上げる。
「クロちゃん、この散らばった果物を集めてもらえる?」
「うむ、わかった」
そうして私とクロで果物を集め木箱に入れていく。
「主よ、これはどこへ置けばいい?」
「あっ、その荷車の荷台に戻してあげて」
「うむ!」
クロは軽々と木箱を重ねて持ち上げる。
普通なら大人二人がかりでもないと運べない重さだ。
「あのお嬢ちゃんすごいな……」
その様子を見て周囲から驚きの声が上がった。
するとアリスが倒れた荷車の方へゆっくりと歩み寄る。
「これは、車輪の軸が折れていますわね」
「困ったな……これじゃ商売にも戻れない。せめて町工房まで運べればいいんですが……」
店主は折れた車輪を見つめながら肩を落とした。
「モニカ、これ治せるかしら?」
「そうですね……」
モニカは静かにしゃがみ込み、折れた木材を確認した。
「応急処置でしたらできると思います」
「ではお願いしますわ。クレア、モニカの手伝いをお願いできますか?」
「うん、いいよ。どうすればいい?」
「まずはこの部分を――」
という具合にモニカの指示を聞きながら木材を組み直し、補強用の革紐でしっかり固定していく。
「よし、これでいいかな?」
「ええ、これで町工房までは問題なく走れるでしょう」
「おお、本当にありがとうございます!」
店主は目を潤ませながら何度も頭を下げた。
「最近は旅人も少し減ってしまっていて、商売も楽ではないんですよ。それなのに荷車まで壊れてしまって……」
「それは大変でしたね……」
ルーナが少し心配そうに尋ねる。
すると店主はふと周りを見回してから、声を少し落とした。
「ええ。最近、魔族が人を襲うなんて噂が流れてるでしょう? 本当なんですかね?」
その言葉を聞いてルーナの表情がほんの少しだけ曇ったが、すぐに笑顔を浮かべてまっすぐ店主を見る。
「私はそのような話を確認しておりません。どうか噂だけで判断なさらないでくださいね」
ルーナは笑みを崩さぬまま、穏やかな声でそう返した。
「そうでしたか。聖女さまがおっしゃるなら安心しました。では本当にありがとうございました」
店主はその一言にほっと肩の力を抜き、深々と頭を下げてから去って行った。
ふと周囲を見ると、いつの間にかたくさんの人が集まっていた。
「さすが聖女さまだ」
「帝国の皆さんも優しい方ばかりですね」
そんな声があちこちから聞こえてくる。
「困った時はお互いさまですよ」
「ふふっ、帝国の者として、お役に立てて何よりですわ」
そう言ってルーナとアリスが少し照れくさそうに微笑んだ。
その笑顔につられるように、周囲にも笑顔が広がっていった。
こういう笑顔を見ると、手伝ってよかったなと思う。
聖公国は本当に優しい人が多い国だ。
……だからこそ、あの噂が広がっているのが少し気になった。私がルーナの方を見ると、彼女は街の人々の笑顔を見つめながらも、どこか考え込むような表情を浮かべていた。
その後、騒ぎも落ち着き、私たちはセイント・パレスに戻ることにした。
私たちが戻ると、エレンが出迎えてくれた。
「おかえりなさいませ。皆さま、お部屋へお戻りになりますか?」
「私は、教皇さまのところへ行きますが皆さんはどうされますか?」
「あっ、私も一緒に行っていいかな?」
魔族の件が少し気になったので、私もそう申し出た。
「ええ、いいですよ。アリスレートさまはどうなさいますか?」
「それでは……私たちはお部屋で少し休ませていただきますわ。レイノルド教皇にもよろしくお伝えくださいませ」
アリスは少し考えてからそう言った。
彼女も、私と同じように何かを感じていたのかもしれない。
エレンに案内され、アリスたちは部屋へ戻っていく。
私とルーナは、そのまま教皇さまの部屋へ向かった。
コンコンッとドアをノックする。
「どうぞお入りください」
「失礼いたします」
部屋の中にはレイノルド教皇と第二枢機卿のセレストが待っていた。
「おや、ルーナ。それにクレア殿も。街の散策は楽しめましたかな?」
「はい、とても楽しかったです。ただ……少し気になることがありまして」
「そうですか、まぁお座りなさい。クレア殿もどうぞ」
そう言ってソファーに座るように勧められた。
私たちが座ると向かいにレイノルドとセレストも座る。
「あの、街で妙な噂を耳にしたのですが。それは事実なのでしょうか?」
ルーナが二人にそう問いかけた。
「魔族の件ですかな? 実際に魔族が襲ったという確認は取れていません」
レイノルドは静かに首を横に振った。そしてその隣でセレストが言葉を続ける。
「今は噂だけが一人歩きしている状態ですね」
「そうですか……では、その噂は誰が?」
ルーナは口元に手を当て、しばし視線を落とした。
「我々も調べてはいますが、わからないのです」
セレストが絞り出すように呟き、小さく息を吐く。
「ですが、一つだけ確かなことがあります」
レイノルドは静かに口を開いた。
「聖公国だけではありません。魔族領でも同じような噂が広がっているそうです」
「えっ……」
思わず声が漏れた。
「つまり、人族と魔族の双方で不信感を煽ろうとしている者がいる、ということですな」
「そんな……目的は何なのでしょうか?」
「わかりません。もっとも、この状況を打開する方法がないわけではありません」
レイノルドが髭を撫でながらそう言った。
「それは、どのような?」
「ただし、そのためには帝国のお力をお借りする必要があります」
「えっ、帝国?」
どうしてそこで帝国の名前が出てくるんだろう。
「ええ、アリスレート殿下のお力があれば恐らく解決できるでしょう」
「それは、もしやアリスレートさまに魔王国を訪問して頂くという事でしょうか?」
「そうですな、アリスレート殿下は勇者になられた。勇者に選ばれた以上、いずれ各国へ正式なご挨拶に向かわれるでしょう」
……なんかすごい話になってきたな。さっきまで温泉でのんびりしてたのに、いつの間にか国際問題の話し合いに参加してる。話についていけず、私は完全に置物になっていた。
「それはたしかにそうですが、聖公国の問題を帝国にすべて任せるというのは」
「ええ、ですからルーナ。あなたには聖公国の代表として同行していただきたい」
「私が、ですか……。ですが、神殿でのお役目がありますし」
「それは私が代行しておきますから大丈夫ですよ。ルーナもたまには外の世界を見てくるといいわ」
そう言ってセレストは穏やかな笑みを浮かべた。
「帝国の勇者と聖公国の聖女が、魔王国を正式に訪問し三国の友好を示す。それだけで『人族と魔族は敵対している』という噂を覆す大きな証となるでしょう」
レイノルドは一度そこで言葉を切り、私の方を見る。
「もちろん、この件を無理にお願いするつもりはありません。最終的なご判断は帝国側にお任せいたします」
「はい、この件は私からアリスレートさまにお伝えしておきます」
それを聞いてルーナは静かに胸の前で手を組んだ。
「……わかりました。もし決まったのでしたら、その時は喜んで同行いたします」
つまり次の目的地は魔王国になるのかな?
まずはアリスに話してからだろうけど……まぁあのアリスがこんな話を断るとは思えないけど。そう思うとちょっと笑ってしまった。
でも魔王国ってどんなとこなんだろ?
「あの……ところで、魔王国にも温泉ってあるんですかね?」
「「「えっ?」」」
あっ、しまった。そんな空気じゃなかった。
三人ともぽかんとした顔で私を見ていた。
「ああ、そうですな。たしか魔王国にも温泉はあったはずですよ」
レイノルドが苦笑しながら教えてくれた。
やっぱり優しいおじいちゃんだねこの人。
「あっ、なんかすいません……」
そうして二人に一礼して、私とルーナは教皇の部屋を後にした。
その後――教皇の執務室。
「セレスト枢機卿、あの吸血鬼の少女を見て、君はどう感じたかね」
レイノルドは窓際に立ち、ソファーに座るセレストにそう問いかけた。
「そうですね。ルーナとも良い関係を築いているようですし、かつてクレア殿を封印した聖女・カルミアさまが残されたお言葉の通り、静かに見守るべきかと」
その言葉にレイノルドはゆっくりと頷き、窓の外へ視線を移した。
「ええ、私もそう思いますよ。では、クレア殿に関するカルミアさまの遺言は他の者には伏せておきましょう」
「はい、わかりました」
セレストは一礼し、それ以上は何も問わなかった。
「さて……あなたは、この世界で何を成すのでしょうな」
レイノルドは小さく目を細める。
「吸血鬼――いや、クレア・オプスクリタ殿」
レイノルドはそう呟き、穏やかな表情で窓の向こうを眺めていた。




