11.幻魔蝶
~*~
「姉ちゃん!」
穂香の身体を強く揺する手と、切羽詰まった様子で呼びかける声。
彼は穂香の弟だった。顔色悪く、うなされながら眠る穂香を起こそうと必死になっていた。
たまたま部屋の前を通りかかり、ほんの少し開いていた扉からうめき声が聞こえてきた時に不安になり、部屋の中を覗いた。
そこには冷房が効いている部屋にいるとは思えないくらいの汗をかきながら、苦しそうに寝ている穂香の姿があった。
本当に寝ているだけかという不安が浮かび、その不安は次第に恐怖に変わっていく。
姉に、何か良くないことが起きているんじゃないかという恐怖に。
「姉ちゃん! おい、起きろ!」
「はぁっ… はっ…」
「大丈夫か? すっげぇうなされてたけど…」
弟の声に小さく反応しながらも声は出せず、呼吸を整えるので精一杯だった。
夢なのだとしても、記憶を見ているだけにしても感覚が現実すぎた。まるで実体験しているかのような感じがした。
穂香は無意識に、左頬、首元、お腹、両腕と順番に触れていった。
あの夢の中で、穂実が村人たちに傷つけられていた所。夢だったのだから穂香の身体に傷はないのだけど、あれだけ傷つけられた穂実を思うと震えが止まらなかった。
「変な夢でも見たの?」
「夢っていうか…」
「姉ちゃん、疲れてんじゃねーの? ここ最近、昼間ずっと出かけてるし」
「大丈夫、孝平が心配するようなことはしてないよ」
本当のことはたとえ弟であっても言えるわけがなかった。心配するなと言っても心配するのがこの弟だと、穂香は分かっている。
まだ呼吸が整わない中、穂香の目の前をネロがひらりと横切っていった。いつもの飛び方じゃない。穂香はそう直感した。
いつもより飛び方が弱々しい気がしたのだ。力を使ったことで疲労しているような印象。
今の自分ならともかく、どうしてネロがそんな状態になっているのだろうと穂香は疑問に思う。
小物とはいえ、大量の妖を迎撃したことだってあった。その時は今ほどの疲れを見せてはいなかった。
「何、この黒い蝶……」
「…! 孝平、見え、るの…?」
「え… 見えるって…?」
穂香は、弟である孝平がネロの姿を認識できていることに驚きを隠せなかった。
ネロは正真正銘の妖。黒羽いわく高位の妖で、見える人間にも見えなくすることができる。
弱っているからなのか、その力は上手く作用していなかった。
穂香はそのことに考え至った時、しまったと思った。
見えてしまったのなら見えてしまったで、普通の蝶で押し通せばよかったのだ。ただ飛んでいる分にはただの蝶に見えなくもないはず、だった。
ともかく、やらかしてしまったことはもう仕方がなかった。
未だに驚き、困惑している孝平に、穂香はできるだけ分かりやすく説明する。
分かりやすくと言ってもネロのことだけ。文月丸や黒羽のことを話しても、余計に混乱するだけだと思ったので、今は話さないことにした。
「妖… 本当にいたんだ…」
「私は孝平が見えることの方が驚きなんだけど。いつから見えてたの?」
「今となっちゃ、そうだったかもっていうのはいくつか心当たりあるけど、それでもいつからっていうのは分かんない」
ついさっき初めて知ったとは思えないくらい、孝平は穂香に対して普通だった。
まるでずっと前から分かっていたとでもいうように。
ふと孝平がネロへと手を伸ばす。
もう少しで触れそう、というところで、まだまだおぼつかない飛び方をしていたが、ネロはその手を回避した。
そして穂香の肩にとまる。弱ってはいるが、穂香を守るという意思を見せた。
「なぁ、ネロって… 幻魔蝶ってどんな妖?」
「え…」
そう聞かれて穂香は言葉がつまる。
上手い説明が思いつかなかったのだ。基本的な、幻術を見せるということ以外は。
高位の妖と聞いていたが、どのくらい高位なのか。
驚くほどに自然に受け入れていた。当たり前のように契約までした存在なのに、知っていることが少なすぎる。
そういえばとあることを思い出し、机の上に置いてある本を手に取った。
「それは?」
「稀莉から借りてきたの。色々、勉強しようかと思って…」
穂香が稀莉から借りてきたものは、その本以外にもいくつかある。
穂実について。術について。そして、妖について。
最低限、知らなければいけないと思って穂香はその3つを借りてきていた。
目次はないので穂香はとりあえずパラパラとページをめくる。孝平は後ろから本の中を覗いていた。
しばらくすると、その記述があるページは見つかった。明確に幻魔蝶の説明されているわけではなかったが、酷似した能力を持つ妖の記述だったので、自然とこれだと思ったのだ。
「姉ちゃん、ここ…!」
「…対象の記憶や魂を媒介にして夢や幻を見せる妖…!」
ネロの能力の特徴とほぼ一致している内容だった。
けれどこの妖とネロは違うと穂香は感じた。
似ているけれど違う。違うけれど似ている。他人の空似かとも思ったが、どうやらそれも違うようだ。
そんなはっきりとしないモヤモヤとした状態の中、穂香は気になる一文を見つけた。
≪幻魔蝶は――の分体≫
一部、文字がかすれていて読めなかった。
何の分体であるかはその他には記されていなかった。けれど穂香にとって、幻魔蝶の能力が少しでも分かったことが何よりの収穫だった。
これで穂香の中にあった心当たりが確信に変わる。きっと、このかすれている部分に入る名前はアレなのだと。
ネロは変わらず弱ったまま。回復しているのかしていないのか。単に時間がかかっているだけなのかもしれないが、治癒の術か何かがあったら覚えてみてもいいかもしれないと穂香は思っていた。
「姉ちゃん、幻魔蝶の元となった妖を探しに行こうとか思ってないよな?」
「…えっ……」
「駄目だからな!? 夢だか幻術だか知らねーけど、あんな苦しそうにしといて自分から首を突っ込みに行くような真似させっかよ」
孝平がそれを言うまで穂香は思いつきもしていなかったのだが、孝平がそれを言ったことで穂香はあることを思い出した。
先程まで見ていた穂実の記憶の冒頭部分に、ネロと雰囲気がよく似たものがあったのだ。
もっとも、それは蝶ではなく花だったが。
色は違ったけれど、その花の花弁にはネロの羽にある模様と同じ模様があった。
穂香に、探しに行くという考えはなかったけれど、とある確認をするために穂実の墓があるあの場所を訪れたいと思っていた。
「大丈夫、危ないことはしないから」
「……」
「信用ないなぁ」
「姉ちゃんの大丈夫は大丈夫じゃないことがほとんどだ」
自分自身の過失が原因とはいえ、孝平に知ってもらっているということは穂香にとって気が楽になることでもあった。
友人などにはない、家族だけにある絆みたいな。
心配はかけたくない。でも知らないわけにはいかない。
穂香は明日にでもあの場所に行くことを決めた。孝平を安心させる為にも危ないことはしないを徹底するつもりで。
ネロの能力の起源が分かったとはいえ、まだまだ分からないことだらけだった。
例えば、ネロはどうして穂実の記憶を夢として穂香に見せたのか。
~*~
翌日、穂香はそっと家を出て穂積山へ向かっていた。
昨夜のこともあるので孝平の目が光っていたのだが、さすが姉だというか、隙を突くのは割と容易だった。
穂香の顔の周りを、回復したネロが飛びまわる。まだ若干、ぎこちない気がしなくもないが。
夢を見せられた側の穂香の方も、足取りは重かった。心に靄がかかった状態。
人が人を殺す場面を見せられたのだ。気が晴れなくて当然であるし、たった一晩で忘れられるわけがない。
同時に、文月丸と穂実の絆の強さも突きつけられた気がした。介入する気さえ起こさせない、2人の絆。
分かっていた。分かっているつもりだった。
けれども耐性がない穂香にとって、分かっていても湧き上がってくるその感情は辛いものだった。
今はただ、なんとか耐えているだけなのだ。
「ホノカー!」
「ホノカだー! 今日はどうしたのー?」
山道を進んでいくと、いつも寄ってくる小物妖たちが穂香を迎えた。今日は文月丸はここにいないようである。
文月丸にもこの山中で会うことがある。今日は来てなくてよかったと、穂香は心の底から思った。
なんとなく今は、文月丸と顔を合わせ辛かった。会いたくなかった。
けれどもここに来ていることは伝わっているのだろうと思った。文月丸の察知能力はけっこう高い。
「ネロ…?」
ネロが穂香から少し離れて飛び始めた。まるで先導するような飛び方。
この先は穂実の墓がある。そう思いながら穂香は歩みを進めた。
しばらく歩くとそれは見えた。穂実の墓のすぐ近くに咲く、一輪の花。
穂香はそれを見て、自分が想像していた通りだと、ほんの少しだけ背筋が凍りついた気がした。
その花、幻魔蝶の母体であるそれは “夢幻花” というのを、穂香は雪宮家にあった資料を見て知っていた。
そして昨夜のうちから夢幻花の能力について、色々な考察を進めていた。
考えることは多かったが、一番はどのような理由で夢幻花から幻魔蝶が生まれるのか。
「お花ー?」
「キレイなお花なのー!」
「ボク知ってるよー。このお花とお話できることがあるのー」
「えっ… そ、それはどうやって…」
「んー、分かんない! でもねー、このお花とはお話しできないのー」
話ができないということは、心を持たない。この夢幻花から幻魔蝶が生まれることはない。
だからこの小物妖が知っている夢幻花は穂積山には咲いていないということ。
「でも… 本当に存在した…」
ネロがいるのだから夢幻花も存るのだと。分かっていてもやはりどこか信じ切れていないところがあった。
だから穂香は自分の目で確認するために、今日ここへ来たのだ。穂実の墓周辺に存在するかもという、謎の自信が穂香にはあった。
そして、見つけた。しかも一輪だけじゃなく、いくつものの夢幻花たちがそこに存在した。
何故今まで気がつかなかったのかというくらいの数。けれど気づかせないことも夢幻花たちの能力の1つであり、穂香もそうであることは理解した。
夢幻花の能力と存在。幻魔蝶との関係。そしてネロを介して見た穂実の記憶。
偶然ではない。穂香はすぐにそう考えた。
夢幻花たちやネロは、自分に何かを伝えようとしているのかもしれない。
そう思っても自分には知る術がなく、どうすればいいのか分からない。穂香はそう考えるたびに焦っていくのを感じていた。
「穂実… 貴女と会って話すことができたら、どうすればいいかもきっと分かるのに…」
墓石の前に座り、目を閉じる。穂香の傍に小物妖たちが寄り添っていた。
その場が静寂に包まれる。たまに吹くそよ風が穂香の頬を撫でている。
穂積山は文月丸による結界に守られているので、真夏なのに春かというくらい過ごしやすかった。
だから穂香はしばらく静寂の中にいた。普通に居心地がよかったのも、もちろんある。
小物妖たちも穂香の傍が心地よかったので、動こうとする者はいなかった。
けれど突然、空気が動いた。それは何かが近づいてきた証。穂香は閉じていた目を開ける。
「もう、妖が見えているのね」
透きとおった、可愛らしい声が穂香の耳に届いた。
穂香はゆっくりと、声のしたその方を見る。
「ゆき…ちゃん?」
そこにいたのは、1匹の白い猫。




