10.記憶という名の夢
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ここはどこだろうと、穂香はそう思った。
夕方前には穂積山を下り、家に帰った。家族全員で夜は外食をして、家に帰ってきて弟と少し話をして。
それからお風呂にも入って、ベッドに入って寝たところまでは覚えているのに。
意識があるここは、朝が来たとは思えなかった。そもそも自分の部屋じゃないことに少ししてから気づく。
右を見ても左を見ても白い空間が広がっている。夢の中なのだろうかと穂香は思った。
けれど、今回はいつも見るような夢とは違っていた。
「(何…? 何か、変だ…)」
突然、目の前がテレビの砂嵐のような感じに乱れ始めた。
ザザッ、ザザッと一際大きく乱れたと思ったら、目の前には山、周りには田畑が広がっていた。
穂香は、どこかの田舎のような風景に少し懐かしさを感じた。
「穂実ねーちゃん!」
子供の声がした。自分の名ではないのに穂香は振り返る。
そこにいたのは数人の子供たち。子供たちは確かに「穂実」と言った。
つまり今、自分は穂実であり、見ている景色は穂実視点ということだった。
ならばこれは、穂実の記憶だろうか。
穂実の記憶を夢として見ている。その解釈が妥当だろうと穂香は思った。
「穂実」
また、呼ばれた。
穂香にとっても、聞き慣れた声。けれど、呼ばれたのは自分の名ではない。
いつもはしない髪型。普段は着ない和服。
見たことのない、あの男の笑顔。その時に自分でも分かるくらい、自分の中に黒い感情が生まれているのを感じた。これは嫉妬にも似たぶつけようのない悲しみ。
「文月丸様」
口が動き、そう言葉を発したのが分かった。
その声で、その名を呼ばないでほしい。穂香はそう思った。思ってしまった。
今見ている光景は穂香のものではない。頬に感じる風の感触も、流れ込んでくる感情も。
穂香だってちゃんと分かっている。けれど嫌な感情が少しずつあふれてくるのは止められなかった。
それでもどうにかして止めようと、穂香は必死に足掻いた。荒れる心を静めようと、殺そうと。
また、景色が変わった。今度は夜で、家の中だ。
穂実は一人暮らしで家には誰もいない。文月丸も会いに来るのは基本的に昼だけで、夜に来ることはめったになかった。
けれど、その日は珍しく夜にも穂実の元へ訪れていた。
恋人同士である2人は身を寄せ合い、とても幸せそうに笑いながら言葉を交わす。
「え… ――、ですか?」
「そうじゃ、穂実になってほしい」
「……」
1つの単語がまるでノイズがかったようになり、穂香の耳には届かなかった。
意識があったところでどうすることもできない。穂実の記憶を追体験しているだけにすぎないのだから。
この後に、おそらく見ることになるであろう「悲劇」を予感した穂香は、最後まで見届ける覚悟を決めた。それでも辛いと思ってしまうのは仕方がなかった。
けれども流れ込んでくる穂実の感情から、穂実はあの笑顔の裏に何かを隠していたのではと思い始めていた。
文月丸にも悟らせなかった穂実の感情。
穂実が文月丸に向けていたのは、愛情と、それよりも大きな深い悲しみ。
誰がどう見ても2人は幸せなはずだった。穂香も知るあの日が来るまでは。
ザザッと景色が揺れて場面が変わる。何度もそんなことがあるからか、いきなり景色が変わるくらいで穂香が驚くことはなくなってきた。
「穂実様、どうされたのですか?」
「…清、あなたにだけ伝えておくことがあります。決して他言はしないように」
「文月丸様にもですか?」
「あの人にだけは絶対にダメです。何が、あっても…」
「穂実様…?」
清、と呼ばれた少年が不安そうに師である穂実を見つめる。
何を伝えられるのか分からなかったけれど、良くない事なのは確かだと感じたからだった。
穂香もこの少年が雪宮の先祖であることを薄々感じていた。雰囲気がなんとなく稀莉に似ている気もしたからだ。
「あなたは明日、昼時になる前にこの村を出なさい。南の方角へ進めばここよりは小さいけれど、そこにいる人たちはみな優しく、過ごしやすい村があるわ」
「え、ど、どうしてですか!? 何かが起こるというのならば穂実様も…」
「私は、明日、殺されるでしょう。おそらくは、村の人たちに」
穂実の口から放たれた言葉は衝撃的なものだった。
思いもよらぬ言葉に、清は言葉を失った。殺される、なんて誰が予想できるだろうか。
どうなろうとも自分はこの地を離れるつもりはない。穂実の強い意志を、その真剣な表情から清は感じ取った。
穂香にとっても予想外の言葉だった。穂実はどうやって自分の最後を知ったのか分からなかった。
文月丸にも言うなということは、穂実と清の2人だけが事前に知っていたことになる。知っていたのならば何故逃げなかったのかという疑問が残る。
清は嫌だった。師匠でもあり、姉のようにも思っている大好きな人を、亡くすと分かっていて何故離れなければいけないのかと。
泣くでもなく、怒るでもなく… ただ膝の上で握りしめた拳にさらに力を込めながら、聞き漏らすまいと穂実の話に耳を傾けていた。
「これは私のお役目なのです。私は、大人になる前に命を落とすことになることは幼い時から分かっていました。この土地に、この山に、選ばれた。
……文月丸様にはとても申し訳ないことをしてしまいました。これまでの生き方に後悔などないけれど、たった1つ、それだけは後悔しています」
「…何故、穂実様なのですか?」
「…さぁ? どうしてでしょう。たまたまと言ってしまえばそれまでですが、おそらくは魂と霊力に関係があるのでしょうね」
それが聞こえた瞬間、穂香は内心ドキリとした。
穂実のそれらが特別であることは、文月丸や黒羽からも聞いたことがあったし、資料でも見たことがあったからよく知っているつもりだった。
ただ、そうなると自分はどうなのだろうという不安が湧き上がる。穂実の生まれかわりで、魂も霊力も特別だと言われてきた自分は…?
「清、――――です。貴方だけは―――。そして、――――を伝え、―――です。いつの日か… 文月丸様の―――――ほしい。あの人を、――――――のです。私が―――は、それだけです」
そう言った穂実は切なそうにふわりと笑った。
悲しみながらも覚悟はできていると、強い意志を持った瞳をしていた。
話の所々にノイズがかかり、いくつかの言葉が穂香の耳には届かなかった。まるでわざと聞かせまいとしているように穂香は感じた。
それは何故なのかと考えていた一瞬の間に場面がまた切り替わった。
「穂実。あんたには悪いが、村の為に死んでくれ」
「…………」
こうなることを知っていても耳を疑いたくなるような言葉。
死んでくれ、なんて言葉。普通は言うこともないし、言われることもないはずの言葉。
言われた当の本人は表情を崩すことなく、凛として村人たちの姿を見据えた。
ただの一言も、発することなく。
けれど穂香にだけは、穂実の感じている恐怖心が伝わってきた。膝の上に乗せている手が微かに震えている。
穂実の目の前にいる村人たちは明らかに冷静さを失っていた。自分たちのおかれている状況に心がどんどん疲弊していき、藁にも縋る思いで穂実の元へとやってきたのだ。
殺すつもりで、鍬や鎌を持って。
その光景を目の当たりにして、穂香は以前読んでいた「お狐様伝説」という本を思い出した。
嘘か本当か分からない内容の物語であるあの本にあったとある一説。
これは、もしかして、生贄というやつだろうか。
でも、今までにも狐神である文月丸に生贄を捧げてきたという、そんな事実は穂香も知らなかった。もしかしたら村人たち側の独断の行動なのかもしれないと思い至る。
そんな行為など、意味がないのに。ただの思い込みで、穂実がどんな思いで。
そう考えると村人たちに対して、穂香の中でふつふつと怒りの感情が湧き上がった。
「すまない… すまない、穂実…」
1人が高々と鎌を上げ、振り下ろした。それは穂実の左二の腕辺りを切り裂いた。
飛び散る鮮やかな赤い血。穂実の顔が苦痛に歪む。
その一発を皮切りにして、村人たちの躊躇いが消え、次々に穂実に刃が降りかかる。
でも、村人たちからは確かに躊躇いは消えたが、涙を流していない者はいなかった。
「(何故… 貴方たちが泣くの…?)」
穂実の苦しみを、痛みを実際に感じる中で。今にも意識が飛びそうな状態の穂香が目にしたのは村人たちの苦しそうな顔。
今、傷ついているのは穂実で、この後に大きな心の傷を負うことになるのは文月丸で、傷つけているのは村人たち。
村人たちの涙の意味が分からなかった。穂香はただ、見て感じることしかできない。
左腕や頬。足や背中や腹などすべての箇所が傷つけられていき、その体や衣服は一瞬で真っ赤に染まった。
「がっ…!」
血濡れた鎌の切っ先が穂実の喉元を切り裂いた。
これが致命傷となる一撃だった。今までどこを何度傷つけられようとも、ギリギリのラインを保っていた穂実の体から力が抜け、その場に倒れこむ。
そこで村人たちの攻撃が止まった。
「こ、これで本当に良かったのか?」
「大丈夫だ。生贄として命と血を狐神様に捧げられる」
「でも、俺たちは穂実を… あんなに、良い子で… 俺たちにも優し、かったのに…」
「ならお前、代わりに自分の娘を差し出せたか? 殺せたか? 穂実が村一番の美人で、尚且つ身寄りのない娘だったからこそなんだ。俺だって最適な穂実がいるのにわざわざ自分の娘を差し出そうとは思わないぞ」
皆、自分の家族が大事なだけだった。
いくら穂実が良い子だったとしても、自分の娘の命には代えられない。その気持ちは穂香にも分かるので、なんともいえない気持ちになりながらも、この夢から覚めるのを待った。
きっと、穂実の命が終わった時が、夢から覚める時だろうと。
すると、まだ微かに生きていた穂実の口が動いた。でも喉をやられているので声は出せない。
「穂実…?」
家の戸の近くで困惑した声がした。村人たちはいっせいにその方を向く。
そこにいたのは文月丸だった。文月丸は会いに来た恋人の家で何が起きているのか分からず、村人たちをかき分けて目にした現場に言葉を失った。
「穂実! どういうことじゃ… 穂実!」
変わり果てた姿の穂実を抱き起して必死に呼びかける。
そして村人たちの表情に警戒の色が戻った。
村人たちは文月丸の存在を知ってはいたが、何者であるかまでは知らなかった。
だから、分からなかったのだ。自分たちがしてしまった過ちを。無意味な行動だったこと、救われるどころか災厄を招いてしまったことを。
「おぬしらが穂実を殺したのか」
「あんたには悪いが穂実は生贄に選ばれたんだ」
「早く狐神様の元へ持っていかねばならない。穂実をこちらへ引き渡してくれないか」
「…………」
「村の状況が状況だ。村で一番美人の穂実を差し出せば、この村の危機を狐神様がきっとお救いに…」
「…誰が、望んだ…」
「……え?」
文月丸から凄まじい殺気と怒気が放たれる。
声は出せなかったが、まだかろうじて生きていた穂実を通して穂香は文月丸を見る。
悲しい。それ以外の言葉が出てこなかった。
文月丸を見て、この状況を見て、穂香は心が痛んだ。今ならどちらの気持ちも理解できるからだ。
「誰が言った! 穂実を殺せと、生贄を捧げよと誰が望んだ! 我はお前らなど… 穂実以外の人間など興味ないのじゃ! もう知らぬ… 穂実のいないこんな村などどうでもいい!」
何もいらなかった。穂実さえいれば、他には何も望まなかったのに。
怒りにより霊力は急上昇し、大きく歪む。その歪みは九本の尾という形として姿を現した。
妖艶に揺らめく九本の尾は、神気が壊れ堕ちてしまった証。妖狐となってしまうまでに深い絶望を味わっているという証でもあった。
そうなってやっと村人たちは、文月丸が何者であるのかや自分たちがしてしまった事の大きさを理解した。
理解した時にはすでにもう、取り返しがつかなくなっていたのだが、そんなことは村人たちの頭では考えつかなかった。
文月丸の咆哮、村人たちの阿鼻叫喚。どこからか発生した大きな炎はあっという間に村中に広がった。
穂実の、そして穂香の耳に音はもう届いていなかった。
微かに残っていた意識も穂実にはもうなく、穂香だけがその光景を見ていた。
穂香が最後に見たのは、今にも壊れそうなほど、ひどく悲しい顔をした文月丸だった。
記憶という名の映像が途切れ、真っ暗な闇の中。
そこから引っ張り上げるかのように、穂香を呼ぶ声がした。
「姉ちゃん!!」




