狂犬の手綱
スラム拠点の一室。
ひび割れた壁と、剥き出しの配線。油と鉄の匂いが混じった、どこか湿った空気が漂っている。
その中央に置かれた簡素なベッドの上で、黒羽は静かに横たわっていた。
呼吸は浅い。
胸が上下するたびに、かすかな苦鳴が漏れる。
血に濡れた衣服はすでに応急処置が施されているが、それでも隠しきれない損傷の深さが見て取れた。
あれほどまでに狂気と殺意を振りまいていた少女が、今はまるで壊れかけの人形のよう。
ぴくりとも動かないその姿に、戦場の残滓だけが、かろうじて彼女が“生きている”ことを証明していた。
「……くそ」
小さく舌打ちしたのは、鴉羽だった。
腕を組み、苛立たしげに床を踏み鳴らす。
視線は黒羽に向けられているが、その奥にあるのは焦燥と、どうしようもない現実への苛立ちだった。
「一つだけ方法があるってお前……状況、わかってんのか?」
低い声。
怒鳴ってはいない。
だが、その抑えた声音の奥には、今にも爆発しそうな感情が押し込められていた。
瑠衣は、黒羽から視線を外さずに答える。
「わかってる」
短い返答。
だが、その声音に迷いはなかった。
「……本当にか?」
鴉羽は一歩近づく。
靴音が、やけに大きく響く。
「抹殺命令が出てんだぞ? しかも相手は黒羽上官だ。ただの規律違反とはレベルが違う」
その言葉に、室内の温度が一段階下がったように感じられた。
“抹殺命令”
それはSEUにおいて、最も重く、最も覆らない決定。
「SEUが一度“不要”と判断した奴が、どうなるか――」
「ああ」
短く答える瑠衣。
“例外なく処分”。
それが、この組織のルールだ。
そして、そのルールは――絶対。
個人の意思も、感情も、事情も関係ない。
ただ、決定が下される。
それだけだ。
「なら、わかるだろ」
鴉羽は、歯を食いしばる。
「今から俺たちがやろうとしてることは……その“絶対”に逆らうってことだ」
沈黙。
機械音だけが、かすかに部屋を満たす。
わかっている。
そんなことは、最初から。
それでも――
「……引き渡せばいい」
鴉羽は、吐き出すように言った。
「黒羽上官を上に引き渡す。それで終わりだ」
言葉は冷たい。
だが、その奥には“現実”があった。
生き残るための、選択。
「このまま庇えば、俺たちまで巻き込まれるぞ」
一歩、さらに踏み込む。
「黒羽上官は、SEUの逆鱗に触れたんだよ。それは……彼女自身が招いたことだ」
視線が、ベッドへ向く。
そこにあるのは、かつての強者の成れの果て。
「……俺たちが、そこに付き合う義理はないだろ?」
正論だった。
誰がどう聞いても、正しい。
感情を排した、合理的な判断。
――生き残るための、最適解。
だが。
瑠衣は、静かに目を閉じる。
(……確かに、正しい)
かつての――レベリスとしての自分なら。
迷わず選んでいただろう。
――だが、今は違う。
自分はもう、誰も死なせないと誓った。
ゆっくりと、目を開く。
その瞳には、もはや迷いはなかった。
「……できないな」
静かに、だがはっきりと。
「は?」
鴉羽が眉をひそめる
瑠衣は、黒羽を見下ろしたまま言い切った。
「こいつを、見捨てることはできない」
その一言は、あまりにも単純で――だが、あまりにも重かった。
空気が、揺れる。
「……はぁ……」
鴉羽は、天井を仰いだ。
理解できない。理解したくもない。
だが、この男が本気であることだけは、嫌というほど伝わってくる。
「お前なぁ……」
頭を掻きむしる。
「感情論で動くなよ。これはそういう話じゃ――」
「感情じゃない」
遮る。静かに、だが強く。
「これは合理的な判断だ」
その言葉に、鴉羽は一瞬言葉を失う。
「……どこがだよ」
半ば呆れたように返す。
瑠衣は、黒羽の顔を見下ろしたまま続ける。
「こいつは強い」
「……それは認めるけどよ」
「《《混血新人類とも渡り合える程にな》》」
鴉羽は黙る。
否定できないからだ。
「なら、捨てる理由はないだろ?」
断言。
「使える戦力を切り捨てる方が、よっぽど非合理的なはずだだ」
一応理屈は通っている。
「それは確かにそうだ。けれど、制御できない戦力はただの爆弾だろ? 黒羽上官を制御するなんて――」
「ああ。だから――」
鴉羽をさえぎるようにして、瑠衣はこう言った。
「俺が制御する」
その言葉が落ちた瞬間、空気が凍りついた。
数秒――口を開かない。
ただ、換気装置の低い唸りだけが、やけに大きく響いていた。
「……は?」
最初に声を発したのは、鴉羽だった。
間の抜けたような、だが理解を拒む声音。
「……いや、待て待て!」
頭を押さえる。
「お前……何言ってんだ!?」
「そのままの意味だ」
瑠衣は、視線を黒羽から外さないまま答える。
その横顔は、驚くほど静かだった。
「黒羽が制御できないから処分されるなら、制御できる人間がいればいい」
理屈としては、単純だ。
だが――
「それが、お前だって?」
「ああ」
即答。
迷いはない。
むしろ、それ以外の選択肢など最初から存在しないかのような断定。
鴉羽は、しばらく言葉を失い――やがて、両手で頭を抱えた。
「……お前、ほんとにバカだろ……」
吐き出すような声。
呆れと、苛立ちと、そしてわずかな恐怖が混じっている。
「そんなの、通るわけねぇだろ」
顔を上げる。
その目は、真剣だった。
「規律に厳しいSEUが、一度除名した奴を戻す? しかも抹殺命令付きだぞ?」
言葉の一つ一つが、現実を突きつける。
「あり得ない。絶対にだ」
「だろうな」
「……は?」
「普通にやればな」
瑠衣は、わずかに口元を歪めた。
その笑みは、皮肉でも、余裕でもない。
――覚悟の形だった。
「証明する」
「……何を」
「俺が、黒羽を制御できる人間だってことを」
その瞬間。
鴉羽の思考が、完全に止まった。
言葉の意味はわかる。
だが、それが意味するところが、あまりにも重すぎた。
「……それで……命令が覆るとでも?」
「覆る、じゃない。覆すんだよ」
あまりにも断定的な言葉。
その“本気”が、否応なく伝わってくる。
鴉羽は、息を呑んだ。
そして――
「……はぁぁぁ……」
深く、長いため息。
諦めにも似た吐息だった。
頭を掻きむしる。
「……もういい」
投げるように言う。
「どうなっても知らねぇからな」
視線を逸らす。
「巻き込まれるのはごめんだが……止めても無駄なんだろ」
「……ああ」
短い肯定。
その一言で、全てが確定した。
「……ほんと、最悪だ」
そう言いながらも、鴉羽はその場を離れようとはしなかった。
逃げることも、突き放すこともできない。
それが、彼の答えだった。
その時だった。
――ガンッ!!
重い衝撃音。
扉が、外側から叩きつけるように開かれた。
錆びた蝶番が軋み、空気が一瞬で入れ替わる。
部屋の温度が、明らかに下がった。
「……随分と騒がしいな」
低く、冷たい声。
感情の起伏を一切感じさせない声音。
だが――それが逆に、異様な圧となって場を支配する。
視線が、ゆっくりと入口へ向く。
そこに立っていたのは――
小柄な少女だった。
年の頃は十代半ば。細い腕、華奢な体躯。
一見すれば、どこにでもいそうな少女。
だが。
その場に立った瞬間から、空気が“支配されている”。
呼吸のリズムすら、無意識に乱されるような圧。
顔を覆う鬼面。
表情は見えない。
だが、その奥から放たれる視線は、刃のように鋭かった。
《SEU序列第4位》――五十嵐 桃。
その背後には、無言の隊員たち。
足並みは揃い、無駄な動きは一切ない。
全員が武装刀に手をかけ、いつでも斬りかかれる姿勢を保っている。
“処理部隊”。
その言葉が、これ以上なく相応しかった。
(……こいつが)
瑠衣は、わずかに目を細める。
(黒羽を……あそこまでやった張本人か)
信じられない、という感情が一瞬よぎる。
この小柄な少女が。
あの黒羽を。
あれほどまでに叩きのめした。
だが――その疑念は、すぐに消えた。
漂う気配が、全てを物語っている。
この場にいる誰よりも“強い”。
理屈ではなく、本能が理解していた。
瑠衣でさえ、油断すれば負ける可能性すらある。
それほどの猛者である事を瞬時に察知した。
「……貴様が、義影瑠衣か」
五十嵐の声が、静かに落ちる。
音量は低い。
だが、耳の奥に直接響くような感覚があった。
「そうだ」
瑠衣は、一歩も引かずに答える。
視線も逸らさない。
わずかな沈黙。
互いに、相手を測る時間。
「何故――」
一歩、踏み込む。
床が、軋む。
「黒羽を連れてきた?」
語気が、わずかに強まる。
圧が増す。
だが、瑠衣は動じない。
「こいつを死なせるのは惜しいと思ったからだ」
即答だった。
間を置かない。
迷いを見せない。
その一言が、場の空気をさらに張り詰めさせる。
「……ほう」
五十嵐の仮面が、わずかに傾く。
「理由は?」
「強いからだ」
短く。
余計な言葉はない。
「こいつは混血新人類とも渡り合える力がある」
沈黙。
数秒。
その言葉の重みを、五十嵐は測っていた。
やがて――
「……確かに」
静かに頷く。
「それだけの力があることは認めよう。だからといって、必要とは限らん」
冷酷な一言。
情も、未練も、そこにはない。
「SEUの規則に従わない者は、戦力であろうと不要だ」
絶対の理。
そこに揺らぎは存在しない。
「組織とはそういうものだ。理解できるな?」
試すような問い。
瑠衣は、わずかに肩をすくめる。
「まあな」
あっさりと認める。
否定はしない。
だが――
「色々問題があったのはわかる」
一歩、前へ。
空気が軋む。
「だが――これからは違う」
その言葉に、五十嵐の視線が鋭くなる。
「……どういう意味だ」
低い声。
明確な警戒。
瑠衣は、はっきりと言い切った。
「俺が、こいつを制御するからだ」
その瞬間。
空気が、完全に凍りついた。
背後の隊員たちが、わずかに動揺する。
だが、五十嵐だけは――静かだった。
数秒の沈黙の後、
「……制御する、だと?」
鼻で笑う。
それは明確な嘲笑だった。
「それを、どうやって信じろと?」
一歩、近づく。
距離が詰まるたびに、圧が増していく。
「第一――」
声が、さらに低く沈む。
「制御できたところで、意味はない」
その一言は、断罪だった。
「黒羽真白には、既に除名及び抹殺命令が下っている。これは覆らん。絶対にな」
絶対の宣告。
「つまり」
視線が、鋭く突き刺さる。
「貴様がそいつを庇うメリットなど、一つもない」
完全な論破だった。
言葉の隙間に、逃げ道は存在しない。
理屈も、規律も、すべてが五十嵐の側にある。
普通なら――ここで折れる。
「だから――」
五十嵐は、わずかに間を置いた。
その“間”が、不自然なほど長く感じられる。
室内の空気が、ぴたりと止まる。
誰も動かない。
誰も息を吐かない。
まるで、次に発せられる言葉を待つことすら“許可が必要”であるかのように。
「早く、黒羽を引き渡せ」
静かに告げられたその言葉は。
命令だった。
絶対に従うべきもの。
従わなければならないもの。
最後通牒と言っても過言ではない。
――それを、疑う余地すらない。
そして。
その命令の意味を、誰よりも理解しているのは――この場にいる全員だった。
沈黙。
重い沈黙。
その中で、五十嵐はゆっくりと一歩、前に出た。
床板が、きしりと軋む。
たったそれだけの音が、やけに大きく響いた。
「……言っておくが」
低く、冷たい声。
先ほどまでと変わらぬ声音。
だが、その奥に含まれるものが、明確に変わっていた。
それは――警告。
「これは“提案”ではない」
視線が、瑠衣に突き刺さる。
「命令だ」
一語一語、区切るように。
逃げ場を塞ぐように。
「従わなかった場合――どうなるか」
ほんのわずかに、間。
そして。
「理解しているな?」
問いかけの形を取っている。
だが、その実――答えは一つしか許されていない。
空気が、さらに重く沈む。
背後の隊員たちが、無言で一歩踏み出した。
同時に――カチャリ、と。
武装刀の柄にかかる手が、わずかに動く。
抜かれてはいない。
だが、“抜ける状態”にはなっている。
その事実が、何よりも雄弁だった。
鴉羽の喉が、かすかに鳴る。
(……やべぇな)
本能が告げていた。
ここで一線を越えれば――“処理”される。
それは黒羽だけじゃない。
瑠衣も、そして、自分も。
例外はない。
SEUにおいて、命令違反は“処分理由”として十分すぎる。
五十嵐の背後に立つ隊員たちは、そのためにここにいる。
躊躇いはない。感情もない。
ただ、命令を遂行するだけの存在。
「……」
五十嵐は、じっと瑠衣を見ている。
急かすことはしない。
怒鳴りもしない。
だが、その静けさが、逆に異様だった。
まるで――選ばせているようでいて、すでに結論は決まっているとでも言いたげな圧。
逃げ場はない。
選択肢もない。
あるのはただ――従うか、消えるか。
ただそれだけだった。
その現実が、じわじわと場を侵食して




