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VS五十嵐桃

 「だから――早く、黒羽を引き渡せ」


 静かに告げられたその言葉は、命令だった。

 揺るがない絶対。拒否という選択肢そのものを、最初から排除している声音。

 だが、瑠衣の意思は既に確固たるものだった。


「……断る」


 その一言で、すべてが崩れた。

 一気に空気が、張り詰める。

 鴉羽の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。

 五十嵐は、わずかに首を傾ける。


「……ほう」


 その反応は、驚きでも怒りでもなく、ただ、確認。

 そして――


「なるほど」


 一歩、踏み出す。

 床が軋む。


「なら――」


 刹那。

 五十嵐の手が、武装刀の柄に触れた。

 次の瞬間には、もう抜かれている。


「死ね」


 その一言と同時に、空間が裂けた。

 居合。

 極限まで研ぎ澄まされた一閃。反応が遅れれば、その瞬間に首が飛んでいるであろう一撃。


 だが。


 ――ガキィィンッ!!


 鋭い金属音と共に、火花が散った。

 瑠衣の武装刀が、真正面からその一撃を受け止めていた。

 衝撃が、更に床を軋ませる。

 鍔迫り合いになり、刃と刃が、至近距離でぶつかり合う。


「……おいおい」


 瑠衣は、歯を食いしばりながら笑った。


「俺には抹殺命令、下ってないんじゃないのか?」


 皮肉。

 だが、その言葉は軽くない。

 五十嵐の目が、わずかに細まる。


「ふっ……」


 小さく、笑う五十嵐。

 それは、明らかな嘲笑。


「全く問題ない」


 押し込む力が、さらに強くなり、刃が軋む。


「貴様は、抹殺命令の下った黒羽を庇っている。共犯者とみなし、排除するのは当然だ」


 断言。

 その論理に、迷いは一切ない。

 規律の塊。

 それが、五十嵐桃という存在だった。


「――おい、鴉羽」


 今度は五十嵐が鴉羽の方へと顔を向けた。

 その名を呼ばれた瞬間。


「は、はいッ!?」


 鴉羽の身体が、ビクッと跳ねる。

 心臓が、嫌な音を立てる。

 五十嵐の視線が、ゆっくりと向けられる。


「貴様も――黒羽を庇うのか?」


 その一言。その圧。

 言葉ではなく、存在そのものが押し潰してくるような威圧。


 ――選べ。


 そう言われている。

 いや、違う。


 ――間違えるな。


 そう突きつけられている。

鴉羽の全身から、滝のような汗が噴き出す。


「そ、それは……」


 言葉が出ない。

 喉が張り付く。

 視線が揺れる。

 そして瑠衣。黒羽。五十嵐を交互に見る鴉羽。

 正解は分かっている。

 五十嵐に従えば、生き残る。

 逆らえば――死ぬ。

 ただそれだけだ。


「……っ」


 歯を食いしばる。

 その瞬間。

 瑠衣の目が、わずかに細まった。


(――今だ)


 五十嵐の意識が、ほんの一瞬、鴉羽へと向いた。

 その“わずかな隙”を瑠衣は、逃さない。

 足を滑らせるように踏み込み――


 ガッ!


 五十嵐の足を、引っ掛けた。

 不意打ち。

 彼女のバランスが崩れる。

 

 普通なら、そのまま体勢を崩すだろう。


 だが――


「……甘いっ!」


 五十嵐の身体が、異常な速度で立て直される。

 まるで重力を無視したかのような動きで、そのまま距離を取ろうとする。


 ――しかし、それが五十嵐の仇となる。


 ――ドゴォッ!!


 空気を裂くような全力の瑠衣の蹴りが五十嵐めがけて放たれる。。

 五十嵐は咄嗟に回避しようとするが、体勢が僅かに崩れていた。

 そして無理に回避しようと体を捻り――。

 その歪みが、命取りになる。


 ――ゴッ!!


 鈍い音。

 瑠衣の蹴りが、五十嵐の顔面に直撃した。


「ぐあっ!?」


 小柄な身体が、弾き飛ばされる。


 そのまま後方の壁へ――


 ドォンッ!!


 激突。

 壁にヒビが走り、粉塵が舞う。

 そして。


 ――ピキッ。


 小さな音。


 それは、ひびが入る音だった。


 次の瞬間。


 鬼面の中央から、細い亀裂が蜘蛛の巣のように一気に走る。

 白い表面に黒い線が広がり、まるで“何かが内側から押し広げている”かのように歪んだ。


 ――パリーンッ!!


 甲高い破砕音とともに、鬼面が砕け散った。

 破片が弾け飛ぶ。

 大小様々な欠片が空中で反射し、鈍い光を散らしながら四方へと舞い上がる。

 回転する破片の一つ一つに、つい先ほどまで“鬼”を形作っていた面影が残っていた。

 頬の部分が砕け、額が割れ、牙を模した装飾が粉々に弾ける。

 その全てが、次の瞬間にはただの“破片”へと変わる。


 そして――


 仮面の奥に隠されていたものが、露わになった。


 その瞬間。


 時間が、止まったようだった。


 誰も動かない。

 誰も声を発しない。


 ただ、砕けた仮面の破片が床に転がる音だけが、やけに大きく響いた。


 カラン、と。


 乾いた音が、遅れて耳に届く。

 その場にいた全員の視線が、吸い寄せられるように一点へと集中する。


 ――五十嵐 桃。


 だが。そこに立っていたのは。

 “鬼”ではなかった。


「……え……?」


 誰かが、思わず漏らした。

 それは、抑えきれなかった本音だった。

 信じられないものを見た時にしか出ない、あまりにも無防備な声。

 そこにあったのは、整った顔立ちだった。


 滑らかな頬。

 線の細い顎。

 そして、あどけなさすら残る、柔らかな輪郭。


 大きな瞳が、わずかに見開かれている。

 そこには確かに怒りと驚きが宿っているはずなのに――それでもなお。


 その印象を覆すことはできない。


 幼い。

 あまりにも。

 これまで“鬼”として空間を支配していた存在と、同一人物とは到底思えない。


 冷酷さも、威圧も、圧倒的な支配力も――その素顔には、一切宿っていなかった。


 あるのはただ。

 年相応の少女の顔。

 まるで、どこにでもいる普通の少女が、場違いな場所に紛れ込んでしまったかのような違和感。


 それが――《SEU序列第4位》、五十嵐 桃の素顔だった。


 ざわり、と。

 空気が揺れる。

 背後に控えていた隊員たちですら、わずかに動揺していた。

 何故なら誰一人として、この顔を知らない。

 長年同じ部隊にいた者でさえ、仮面の下を見たことはない。

 それほどまでに、この女は“鬼”であり続けていた。

 だからこそ。

 今、目の前にある光景は――理解が追いつかない。


(こんな幼い顔立ちをしたこの女が、あの鬼教官?)


 瑠衣の喉が、ひゅっと鳴る。

 あの五十嵐が。

 規律の象徴が。

 絶対の存在が。


 こんな――“普通の少女”の顔をしているなんて。


 その異様なギャップに、誰もが釘付けになっていた。


「――っ!!」


 次の瞬間。

 五十嵐が、弾かれたように両手で顔を覆った。

 まるで“見られてはいけないもの”を必死に隠すかのように。

 その動きは速かった。だが、完璧ではなかった。

 わずかに覗く頬が、赤い。

 ほんのりと、ではない。 明らかに、血が上っている。

 その事実がこの場にいる全員の理解を、さらに混乱させた。


 あの五十嵐が。

 あの、規律の番人が。

 “羞恥”という感情を、見せている。


 ざわり、と空気が揺れる。

 誰も声を出さない。

 だが、その沈黙の中に確かにあった。


 動揺。

 困惑。

 そして、わずかな――違和感。


 あまりにも、今までの五十嵐と違いすぎる。

 その落差に、誰もがついていけない。


「貴様……」


 震える声。

 押し殺したつもりなのだろう。

 だが、隠しきれていない。

 怒りと――それ以上に強い何かが混ざっている。


「よくも……」


 ゆっくりと。

 本当にゆっくりと、五十嵐が顔を上げる。

 まだ完全には隠しきれていない。

 指の隙間から覗くその表情は――やはり、赤い。


 頬だけじゃない。

 耳まで、ほんのりと染まっている。


 だが、その瞳は――先ほどよりも、ずっと強く光っていた。


「よくも私の仮面をッッ!!」


 怒声が、室内に叩きつけられる。


 その声は確かに鋭い。

 だが――

 ほんの僅かに、震えていた。

 それが、決定的だった。


 恐怖の象徴だったはずの存在に、

 “隙”が生まれている。

 それも、致命的なほどに。

 五十嵐は、呼吸を荒げる。整えようとしているのが、わかる。

 肩が、わずかに上下している。


 ――必死に、“戻そうとしている”。


 あの仮面の下にいた“鬼”へと。


「……」


 五十嵐は構え直す。

 武装刀を握る手に、力が入る。


 だが。

 ほんの一瞬だけ。

 躊躇いが、混じった。

 それは戦闘の迷いではない。

 “見られた”という事実が、まだ消えていない。

 自分の素顔を。

 自分の“素”を。

 誰にも見せてこなかったそれを。


 ――見られた。


 その事実が、五十嵐の中で燻り続けている。


(……なるほどな)


 瑠衣は、静かに息を吐く。


(あの仮面は……)


 ただの装飾じゃない。

 “役割”だ。

 あれを被ることで、彼女は“鬼”でいられた。

 規律の番人として。

 誰よりも冷酷で、誰よりも絶対な存在として。

 だが今は違う。

 剥がれた。

 その仮面ごと。

 そして露わになったのは――まだ未完成の、少女の部分。

 怒りも、羞恥も、隠しきれない感情。

 それを押し殺し、無理やり“鬼”へと戻ろうとしている。


「……」


 五十嵐は、もう一度踏み込む。

 構えは崩れていない。

 殺気も、確かにある。

 だが。

 その動きはほんのわずかだけ、遅れていた。

 先ほどまでの、“一切の無駄がない動き”とは違う。

 ほんの僅か。

 だが確実な、“人間の揺らぎ”。

 瑠衣は、それを見逃さなかった。


(――もらった)


 瑠衣の目が、鋭く細まる。

 次の瞬間には、もう動いていた。

 踏み込み。

 床を蹴る音すら置き去りにする加速。

 一瞬で間合いを詰める。


「――っ!?」


 五十嵐が反応するが、遅い。

 ほんの僅か。

 それだけの差が、致命的だった。


 ――ギィン。


 冷たい刃が、首元に触れる。

 瑠衣の武装刀だ。

 あと数ミリ踏み込めば、そのまま頸動脈を断ち切る位置。


 完全な間合い。

 完全な制圧。

 沈黙が落ちる。

 誰も動けない。

 背後の隊員たちも、抜刀しかけたまま止まっていた。


 動けば――間に合わない。


 それが、誰の目にも明らかだった。


「……」


 五十嵐が、わずかに息を呑む。

 喉元に触れる刃の冷たさ。

 その現実が、遅れて実感として押し寄せてくる。


(……私が……)


 思考が、一瞬だけ空白になる。


(……押さえ込まれた?)


 信じられない。

 否、認めたくない。

 こんな形で、制圧されるなど。


「……終わりだな」


 瑠衣が、静かに告げる。

 その声には、勝ち誇る色はない。

 ただ、事実を述べているだけだった。


 だが――


「……っ」


 五十嵐の肩が、震える。

 次の瞬間。


「この……ッ!!」


 弾かれたように叫ぶ。


「卑怯者がぁぁッ!!」


 怒声。

 先ほどまでの冷静さは、完全に消えていた。


「……は?」


 瑠衣は、わずかに眉をひそめる。

 何が卑怯なのか意味が解らない。

 戦闘において隙を突くのは当然だ。


 だが――


「貴様、今のは……!」


 五十嵐は顔を真っ赤にしたまま、喚き散らす。


「そ、その……あれだ! 正々堂々と……!」


 言葉が、途中で詰まる。

 明らかに、理屈が追いついていない。


「……」


 瑠衣は無言で見下ろす。

 冷静な視線。

 その温度差が、余計に際立たせる。


「……ぐっ……!」


 五十嵐は、歯を食いしばる。

 言い返したい。

 だが、言葉が出てこない。

 悔しさと、羞恥と、怒りがごちゃ混ぜになっている。


「……ち、違う……!」


 ぶつぶつと呟く。


「こんなのは……本来の私では……!」


 完全に取り繕えていない。

 そこにいるのは――

 鬼教官でも、規律の象徴でもない。

 ただの、年相応の少女だった。


「……」


 鴉羽は、その光景を呆然と見ていた。

 頭が追いつかない。

 目の前で起きていることを、うまく処理できない。


(……え?)


 思考が、止まる。


(……あれが……五十嵐上官……?)


 さっきまでの圧倒的な存在感。

 逆らえば即座に“処理”されると本能が告げていたあの恐怖。

 それが――今は、どこにもない。


「……」


 喉が、鳴る。


(俺……)


 無意識に、呟く。


(俺は……今まで……)


 じわじわと、実感が湧いてくる。


(……こんな奴に、ビビってたのか?)


 拍子抜け。

 あまりにも、あっけない。

 いや――違う。

 強かったのは、確かだ。

 今でも、強い。

 だが。

 “絶対”ではなかった。

 それだけの話だ。


「……」


 瑠衣は、刃を動かさない。

 首元に突きつけたまま、じっと五十嵐を見ている。

 その視線には、すでに戦意は薄れていた。

 勝負は、ついた。

 そう判断している。

 そして――


(……やっぱりな)


 内心で、静かに結論を出す。


(こいつは“鬼”じゃない)


 ただ。

 そう“あろうとしていただけ”だ。

 その仮面が、今剥がれた。

 それだけのこと。

 その時だった。


 ――ガチャ。


 場違いなほど軽い音が、室内に響いた。

 全員の視線が、反射的に入口へ向く。

 そこに立っていたのは――


「良かった!なんとか間に合うたか!」


 序列第2位――薬師寺亮だった。


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