幻影クラスター
闘技場を後にし、瑠衣と鴉羽はスラムの拠点へ戻っていた。
黒羽との死闘を終えたばかりだというのに、基地内は拍子抜けするほど静かだった。
軋む床の音。換気装置の低い唸り。
それらがやけに現実的で、さっきまでの殺気に満ちた戦場が、遠い幻のように思える。
「……はぁ」
鴉羽が腰を下ろし、深く息を吐いた。
祝勝会だなんだの息巻いていただが、簡素な食堂に並べられたのは、乾燥肉と雑穀飯、薄いスープだけ。
味気ないが、ここでは十分すぎるご馳走だ。
箸を取ったものの、瑠衣はすぐには口を付けなかった。
脳裏に浮かぶのは、闘技場近くで見たあの姿――五十嵐桃。
(……やっぱり、引っかかる)
偶然このスラムに来るとは思えない。
しかも向かっていた先は、黒羽のいる闘技場だった。
「どうした? 冷めるぞ」
「ああ……」
そう言って、瑠衣はようやく口に運ぶ。
だが、味はほとんど感じなかった。
――その時だった。
キィィィィン――ッ!!
基地全体を震わせる、甲高い警報音。
赤色灯が一斉に点灯し、通路の壁が血のような光に染まる。
「――ッ、なんだ!?」
鴉羽が椅子を蹴って立ち上がる。
同時に、周囲の隊員たちも即座に動き出していた。
武装刀を手に取り、端末を開き、各自の配置へと向かう。
瑠衣も反射的に立ち上がり、壁のモニターに目を向けた。
「……おいおい……」
鴉羽の声が、かすかに震えていた。
モニターに映し出されていたのは、無数の赤い点滅。
ひとつやふたつではない。
地図の上を、まるで血の滴が流れるように――一直線に、同じ方向へ進んでいる。
その進行方向の先にあるのは――
「闘技場……?」
瑠衣が呟いた、その瞬間。
「……ああ。嫌なもんが来たな」
鴉羽は苦々しい表情で言った。
「この赤い点滅……まさか――幻影クラスター⁉」
「幻影クラスター?」
「基本、幻影は単独行動が多い。だがな……稀に、理由もわからず集団で襲ってくることがある。下級だけじゃねぇ。中級、上級が混じることも珍しくない」
鴉羽はモニターから目を離さない。
「数が多いだけならまだしも……中級、上級幻影がいるとなると話が変わってくる。
少なくとも俺一人じゃ手に負えねぇ」
「……なるほど。なら、シングルナンバークラスを呼ぶしかないという事か?」
「ああ。正直、それが一番賢い」
だが、次の瞬間。
「……って、そうだ!」
鴉羽が、何かを思い出したように声を上げる。
「ここには五十嵐上官も、黒羽上官もいるじゃねぇか!
あの二人なら、上級が混じってても問題ねぇ!」
確かに、それは事実だ。
“戦力”だけを見れば、これ以上ない布陣。
――だが。
瑠衣の胸の奥に、冷たい違和感が広がっていく。
(本当に……それだけか?)
五十嵐は、何の目的でこのスラムに来た?
何故、黒羽のいる闘技場へ向かった?
仲が悪いはずの二人が、同じ場所にいる理由は――?
そして何より。
(黒羽は、今……万全じゃない)
共鳴技を使った直後。
瑠衣との戦いで、間違いなく消耗している。
そんな状態で、幻影クラスターとやらを相手にできるのか?
嫌な予感が、確信に変わっていく。
「ま、ここはあの二人に任せるとして――」
鴉羽がそう言いかけた瞬間。
「鴉羽」
瑠衣は、もう決めていた。
「俺、ちょっと行ってくる」
「――は?」
振り返った鴉羽が言い終わる前に、
瑠衣はすでに走り出していた。
「おい! お前、まさか――!」
制止の声を背に、基地の出口を蹴る。
夜風が頬を打つ。
赤色灯の光が、背後で滲んでいく。
(理由はわからない……)
だが。
(放っておいたら、取り返しのつかないことになる)
瑠衣は確信していた。
これは、戦いの続きではない。
――選択を誤れば、誰かが死ぬ。
その予感だけが、異様なほど鮮明だった。
◇◇◇
嫌な胸騒ぎは、外れることがなかった。
瑠衣は瓦礫だらけの通路を駆け抜けながら、次々と出現する幻影を斬り捨てていく。
下級幻影――一太刀。
中級幻影――間合いに入る前に斬撃を飛ばし、核ごと断つ。
速度を落とす理由はなかった。
いや、落とせなかった。
胸の奥で警鐘が鳴り続けている。
「……くそ」
呼吸を乱さぬまま、瑠衣は闘技場の外壁を越えた。
次の瞬間。
視界が開け、巨大な闘技場の内部が露わになる。
そして――瑠衣は、確信した。
(……やっぱりな)
闘技場中央。
そこに、倒れている一人の少女がいた。
黒と白に分かれた髪は血と埃に汚れ、
メイド服は裂け、肌には無数の打撲と切創。
まるで、使い捨てられた雑巾のように、無造作に転がされている。
黒羽真白。
あれほどの狂気と殺気を纏っていた姿は、そこにはない。
あるのは――敗者の姿。
そして、死にかけの身体。
周囲には、無数の幻影。
下級幻影が蠢き、
中級幻影が空を舞い、
さらに奥には、異様な気配を放つ上級幻影の影まで見える。
(ちっ……数が多すぎる)
そして、その中に――
(しかも自爆タイプがいるのか……)
浮遊する、直径五十センチほどの球体。
表面には不規則な文様が脈打ち、内部で何かがカウントされているのが分かる。
中級幻影・自爆型。
戦闘能力自体は低い。
だが、核の破壊に失敗すれば、半径百メートルを塵に変える時限爆弾と化す。
更にそれだけではなく、鋼鉄をも溶かす超高圧レーザーや毒ガスまでも吐いてくる。
正史では、たくさんの新人類がこの幻影に命を奪われた。
爆発一つで戦線が崩壊する、まさに最悪の存在だ。
(この数……闘技場ごと吹き飛ばす気か)
だが。
今は、それを相手にしている余裕はない。
(まずは――黒羽だ)
瑠衣は地を蹴った。
音を立てず、だが疾風のように。
幻影が反応するより早く、闘技場の中心へと踏み込む。
迎撃に出た幻影の腕を躱し、
黒羽へ刃を向けた個体を一閃で両断。
血と闇が弾ける中、瑠衣は膝をついた。
「……瑠衣……くん……?」
掠れた声。
黒羽の瞳が、かろうじて開く。
焦点は合っていない。
呼吸も浅く、今にも途切れそうだ。
先ほどまでの狂気は微塵もない。
そこにいるのは、ただ死を待つだけの、か弱い少女だった。
「嫌な予感がして来てみれば……」
瑠衣は歯を噛みしめる。
「一体、何があった」
五十嵐の姿はない。
南野の姿も見えない。
だが、状況は嫌でも察せられる。
(……やり合ったな)
しかも、一方的に。
だが、今は詮索している場合じゃない。
「なんで……ここに……?」
黒羽が、血を吐きながら呟く。
「話は後だ」
瑠衣は彼女の背中に腕を回す。
「一旦後だ。今はとにかく逃げるぞ。流石にこの数は俺でも捌ききれん」
百を超える幻影。
上級幻影まで含まれている以上、黒羽を守りながら戦うのは無謀だ。
瑠衣は黒羽を抱き上げた。
お姫様抱っこのような形で。
彼女は、抵抗しなかった。
ただ、瑠衣の胸元に顔を埋め――そのまま、意識を手放した。
「……ったく」
瑠衣は小さく舌打ちする。
「重傷者抱えて逃げる羽目になるとはな」
次の瞬間、地を蹴った。
黒羽に振動が伝わらぬよう、限界まで動きを殺しながら、全速力で闘技場を駆け抜ける。
背後で、幻影たちが咆哮を上げた。
――カチッ
耳障りな音。
自爆タイプのカウントダウンが始まる。
浮遊しながら、瑠衣の横を並走する球体。
内部の光が、刻一刻と赤く染まっていく。
5。
4。
3――
「ちぃっ――!」
瑠衣は瞬時に判断した。
足を止めず、身体を捻り――自爆タイプを、思い切り蹴り飛ばす。
弾丸のように飛ばされた球体は、下級幻影の群れへ。
次の瞬間。
ドゴオオオオオッッ!!
爆炎が闘技場を揺らした。
耳をつんざく轟音。
熱風と衝撃が背中を叩く。
数体の幻影が、まとめて消し飛んだ。
だが、追撃は止まらない。
瑠衣は歯を食いしばり、最後まで幻影を振り切り――
闘技場を後にした。
◇◇◇
スラム拠点。
瑠衣が戻ってきた瞬間、鴉羽一平の怒声が飛んだ。
「おい、義影――!お前、勝手に何やって――」
そこで、言葉が止まる。
瑠衣の腕の中。
ぐったりと横たわる人物を見て、鴉羽は凍りついた。
「……お前……それ……」
喉が鳴る。
「……まさか、黒羽上官……?」
鴉羽は信じられなかった。
あの黒羽が、こんな姿で戻ってくるなど。
「ああ」
瑠衣は短く答える。
「すぐに治療が必要だ。第一療養所に――」
無線を取ろうとしたその手を、
「やめろっ!!」
鴉羽が、即座に掴んで止めた。
その表情は、冗談でも怒鳴り合いでもない。
切迫した、真剣な顔だった。
「何でだよ!早くしないと黒羽が死ぬだろうが!」
「わかってる!!」
鴉羽は声を荒げる。
「だが、今第一療養所に引き渡せば――今度こそ、殺されるぞ」
殺される。
その一言に、瑠衣の思考が止まった。
「……殺される? どういうことだ」
「……さっき通知が来たんだよ」
鴉羽は、震える息を整えながら続ける。
「SEU全隊員宛だ。そこには黒羽真白を除名とし、そして――」
一瞬、言葉を詰まらせる。
「SEU規則第六十八条。機密事項白紙特約に基づき――抹殺命令が下った」
「な……」
頭の中で、何かが音を立てて崩れた。
「第一療養所はSEU管轄だ。そこに連れて行けば、そのまま処分される」
鴉羽は歯を食いしばる。
「……だから、病院には行けない」
瑠衣は、ベッドに横たわる黒羽を見る。
呼吸は、さらに浅くなっている。
(……このままじゃ、彼女は死ぬ)
だが、連れて行けば殺される。
袋小路だった。
「五十嵐上官が……やったんだろうな」
鴉羽が低く呟く。
「でなきゃ、あんな状態になるはずがない」
瑠衣は黙ったまま、考える。
黒羽は問題児だ。
規律違反も多い。
だが――
(それでも)
混血新人類と互角に戦える、数少ない戦力。
失えば、救えた命が失われる。
SEUが彼女を切った理由は、考えるまでもない。
強すぎる。
危うすぎる。
そして――制御できない。
黒羽真白は、常に“諸刃の剣”だった。
鋭く、凶暴で、圧倒的な殺傷力を持つ。
だが同時に、それは鞘を持たない剣でもあった。
誰の命令にも完全には従わず、
誰の価値観にも縛られず、
戦場ですら遊び場に変えてしまう異常性。
それは才能であり、狂気であり――
組織にとっては、明確な「不安要素」だった。
(……手綱を握れなかった)
瑠衣は、そう結論づける。
黒羽は、命令を嫌っているわけじゃない。
規律を理解できないわけでもない。
ただ――従う価値のある相手が、いなかっただけだ。
瑠衣は思い出す。
闘技場で見た、あの笑顔。
殺意と快楽が入り混じった、歪んだ歓喜。
だが、その奥にあったのは、
承認でも、忠誠でもなく――空虚だった。
(……あいつは)
戦うことでしか、自分の居場所を確認できない。
誰かの役に立つことでしか、自分の存在を証明できない。
だからこそ、暴れる。
だからこそ、壊れる。
そして、誰にも止められなかった。
(違うな……)
瑠衣は、心の中で否定する。
(止められなかったんじゃない。――止める資格を持つ奴が、いなかっただけだ)
では、誰ならいい?
序列一位か。
規律の番人か。
皇国の重鎮か。
違う。
黒羽は、力や肩書きに従う人間じゃない。
恐怖で縛られれば、いずれ必ず噛みつく。
ならば――
(理解して、受け止めて、それでも使い切る覚悟を持つ奴)
居場所を求め、価値を与えてくれる“誰か”を求め、
それが得られなければ、壊れていく。
ならば。
(誰かが、手綱を握れると証明すればいい)
恐怖でも、命令でもなく。理解と覚悟で。
そして――瑠衣の中で、答えがはっきりと形を成す。
――つまり。
(俺が、黒羽の手綱を握る)
危険だ。
失敗すれば、自分も終わる。
だが。
それでも。
ここで彼女を見捨てれば、
自分はまた使い潰される側を見殺しにする。
かつて自分が散々使い潰された挙句殺されたときのように。
それだけは、耐えられなかった。
「鴉羽」
瑠衣は、静かに言った。
「一つだけ、方法がある――」
鴉羽は、固唾を飲んで瑠衣を見つめる。
その先に待つものが、救済か、破滅か――。
どちらであっても、後戻りできないと理解しながら。
数秒の沈黙。
やがて瑠衣は、ゆっくりと踵を返した。
「……場所を移す。ここじゃ話にならない」
そう言い残し、歩き出す。
鴉羽は一瞬ためらったが――小さく舌打ちし、その背を追っ




