黒羽真白の過去 その4
事件が揉み消されたその日から、学園は真白にとって、とても静かになった。
うるさかった声は消えた。
笑い声も、囁きも、ひそひそ話も。
いじめが「なくなった」わけじゃない。
ただ、やる勇気がなくなっただけ。
廊下ですれ違えば、視線を逸らされる。
教室に入れば、空気が一瞬で固まる。
誰も話しかけない。
誰も近づかない。
(ふふ。怖いんだ)
それだけで、十分だった。
恐怖は、便利だった。
何より――嘘をつかない。
真白は、静かに理解した。
(……あぁ、これが正解なんだ)
どれだけ努力しても、褒められなかった。
結果を出しても、認められなかった。
むしろ、妬まれて、叩かれて、壊されそうになった。
でも。
壊したら、静かになった。
踏みつけたら、黙った。
怖がらせたら、勝手に離れていった。
「……簡単だったなぁ」
思わず、笑ってしまう。
今まで、何を必死に耐えていたんだろう。
正しくあろうとして、我慢して、傷ついて。
そんなの、意味なかった。
真白は、自分の中で何かを切り替えた。
もう、正しさなんて選ばない。
正しいことをしても、誰も助けてくれない。
正しいことをしても、誰も救えない。
だったら――
選ぶのを、やめればいい。
命令してくれる人がいればいい。
決めてくれる人がいればいい。
強い人が上にいて、私はそれに従うだけ。
そうすれば、悩まなくて済む。
迷わなくて済む。
失敗しても、「命令だから」で済む。
……楽。
その考えに辿り着いたとき、
真白は生まれて初めて、安心した。
(……理想のご主人様)
(私を、正しく使ってくれる人)
(命令して、導いて、決めてくれる人)
それが、必要だった。
そして、もう一つ――
とても大事なことにも、気づいてしまった。
自分には、「愛される未来」が一切、想像できないということ。
家族に愛されたことはない。
学校でも、誰からも愛されなかった。
(あぁ……どうせ、私って愛されないんだ)
その諦めは、驚くほどあっさり心に根付いた。
でも。
愛したい気持ちは、知っていた。
あの清掃員の人に、優しくしたかった。
役に立ちたかった。笑ってほしかった。傷ついてほしくなかった。
――だから、分かる。
愛されるより、愛するほうがずっと楽。
愛されるのを待つのは、怖い。
裏切られるかもしれない。
捨てられるかもしれない。
でも、愛するのは違う。
自分で選べる。自分で与えられる。自分の手で、守れる。
愛することでしか――私は、自分が生きてるって、感じられない。
(私が役に立つなら)
(私が必要なら)
(それで、全部いい)
そうして真白の中で、主従という形が静かに完成していった。
愛したい。
尽くしたい。
でも、自分では選びたくない。
選ぶのは、怖い。
だから――命令してくれる主が、必要。
矛盾してる?
ううん。
完璧。
それからの真白は、学園の裏で淡々とこれまでの清算を始めた。
かつて自分を笑った人。
かつて自分を殴った人。
かつて自分を見て見ぬふりをした人。
露骨なのは、つまらない。
だから、事故。転倒。
訓練中の不運。
結果、何人かは病院送り。噂は立つけど、証拠はない。
最後に残るのは、ひとつだけ。
――黒羽真白には、近づくな。
その空気すら、父が揉み消した。
それは決して愛情じゃない。家名のため、そして体裁のため。
勿論、そんな事は分かってる。
(……便利ね。守られてるんじゃない。隠されてるだけなんて)
でも、もうどうでもよかった。
あの人の温度が消えた日から、真白の心は冷たいまま。
そして、学園卒業の日。
誰とも目を合わせず、
何も言わず、学園を出た。
行き先は、ひとつ。
――SEU。
理想のご主人様を探すため。
命令してくれる、強い主を見つけるため。
自分の力を、正しく使ってくれる存在に出会うため。
真白は、そう信じていた。
だから、迷わなかった。
だから、疑わなかった。
与えられた訓練はすべて受け入れ、
命令は一度も拒まず、
結果だけを積み上げた。
黒羽真白の評価は、異様な速度で跳ね上がっていった。
入隊から、わずか一年。
気がつけば彼女は、SEU序列一桁――《シングルナンバー》の席に座っていた。
それは、組織の歴史の中でも滅多に起こらない異例の昇格だった。
実力、戦果、判断力。そのどれを取っても文句のつけようがなく、上層部は彼女を「期待の新人」として扱った。
そして、シングルナンバーに到達した者には、ある特権――いや、義務が課される。
前線任務だけでなく、皇国政府直属の特別任務への参加資格。
その中に、貴族や政府要人への護衛任務が含まれていた。
国家にとって重要な人物を守る。
それは表向きには、名誉であり、信頼の証とされている。
だが実態は違う。
力を持つ新人類を、一定期間、私的に“貸し出す”制度だった。
真白は、その対象に選ばれた。
拒否権はない。
シングルナンバーである以上、それは当然の義務だった。
それでも――
その時の真白の胸には、ほんのわずかな期待があった。
(国の中枢にいる人間なら……)
(私より強い人が、いるかもしれない)
自分より上に立ち、命令し、決断し、その結果を引き受ける覚悟を持った存在。
真白が求めていたのは、支配者ではない。
主だった。
だからこそ、最初の護衛任務に就いたとき、彼女は相手をよく見ようとした。
護衛対象は、皇国政府高官の血を引く貴族。
年はまだ若く、言葉遣いも丁寧で、態度も柔らかい好青年。
一見すれば、非の打ち所のない人物だった。
だが、それはあくまで“平時”の姿に過ぎなかった。
ある市街地での視察。
危険度は低いとされていた任務だったが、その想定が、音を立てて崩れた時の事。
突発的な爆発音。
悲鳴。
人の流れが一気に乱れ、空気に殺意が混じる。
真白は、迷わなかった。
身体が自然と前に出る。
だが、その背後で――主は動かなかった。
「……おい、黒羽」
声が震えていた。
汗ばんだ手で、彼は立ち尽くしている。
「何とかしろ。お前が」
それは命令だった。
だが、そこには決断がなかった。
真白は一度、退避を促した。
だが彼は、苛立ったように舌打ちする。
「だから言っているだろう? お前が何とかしろと。私に恥をかかせる気か?」
その言葉を聞いた瞬間、真白の中で、何かがすとんと落ちた。
――ああ。
この人は、守られる側の人間じゃない。
彼は、自分の命よりも体面を優先していた。
傷つく可能性よりも、格好がつかないことを恐れていた。
結果として、真白がすべてを引き受けた。
襲撃者を制圧し、混乱を収め、死者は出なかった。
任務は成功だった。
だが帰還後、提出された報告書を見て、彼女は言葉を失う。
《護衛の判断がやや過剰だったが、主の冷静な指示により被害は最小限に抑えられた》
真白の名前は、どこにもない。
後日、その貴族が酒席で語っているのを耳にした。
「いやぁ、あの時は怖かった。だが、うちの護衛が優秀でね。道具は使い方次第、ということだ」
――道具。
その一言が、胸の奥に冷たく刺さった。
(違う)
(この人は、主じゃない)
命令はする。
だが決断はしない。
責任も、覚悟も、背負わない。
それでも別の護衛任務に就くたび、真白は期待してしまった。
次こそは違うかもしれない、と。
だが現実は、さらに醜かった。
次の護衛対象は、小太りの中年貴族。
距離の近すぎる視線。
護衛ではなく、所有物を見る目。
「どうせ命令には逆らえないんだろう?」
その言葉を聞いた瞬間、真白は完全に悟った。
自分が求めていたのは、こんな存在ではない。
自分より強く、力を背負う覚悟を持ち、命令に責任を伴わせる人。
だが、現実にいたのは――
支配だけを欲しがり、安全な場所から命令を投げる人間ばかりだった。
国家の中枢ですら、この程度。
その事実に、真白は深く絶望した。
――だから彼女は、選別を始めた。
ふさわしくない主は、不要。
殺しはしない。
だが、二度と表舞台に立てない程度には壊す。
事故。発作。恐怖。
貴族たちは、静かに姿を消していった。
上層部もすぐに真白がやったと把握する。
黒羽真白は従順だが、主を選ぶ。
命令には従う。
だが、覚悟なき者は主として認めない。
だから彼女は、追いやられた。
――スラムへ。
問題が起きても揉み消せる場所。
消耗しても惜しくない場所。
それでも真白は、命令に従った。
それしか、生き方を知らなかったから。
ただ一つ、心の奥に残った願い。
(……理想のご主人様)
(自分より強く、覚悟のある人)
(正しく命令して、正しく使ってくれる人)
――まだ、どこかにいると信じて。
◇◇◇
走馬燈は、唐突に終わった。
ぶつりと糸を切られたように、真白の意識は現実へと引き戻される。
――ああ。
本当に、見るんだ。
死を目前にすると、走馬燈を見る。
そんな話を、どこか他人事のように聞いていたはずなのに。
幻影が、ゆっくりと近づいてくる。
黒い巨体。
人の形を模していながら、決して人ではない異形。
鋭い爪が光を反射し、ゆっくりと、確実に振り上げられる。
時間が、引き伸ばされたように感じられた。
まるで世界が、水の中に沈んだみたいに、音も、動きも、現実感も遠のいていく。
(……ああ、ここまで、か)
恐怖は、なかった。
叫びたいとも、暴れたいとも思わなかった。
ただ、静かに理解してしまったのだ。
――もう、助からない。
ここで自分は終わる。
このまま幻影に引き裂かれ、肉片となり、誰にも顧みられずに消える。
(……結局、私は)
誰かの役に、立てたのだろうか。
SEUに入って、刀を握って、戦って。
強くなったつもりで、誇りを持っていたつもりで。
それでも、最後は独りだ。
死にたくない――
そう思った瞬間には、もう遅い。
助けなんて、来ない。
そんな都合のいい奇跡が起きるほど、世界は優しくない。
真白は、そっと目を閉じた。
これ以上、見る必要はないと思ったから。
どうせ次の瞬間には、痛みすら感じる暇もなく――
……なのに。
いつまで経っても、衝撃が来ない。
肉を裂く感触も、骨が砕ける音も、何ひとつ。
(……?)
不審に思い、恐る恐る目を開ける。
そこにあったのは――
自分を襲うはずだった幻影が、真っ二つに裂け、崩れ落ちていく光景だった。
理解が、追いつかない。
息が、詰まる。
(……え……?)
そして、その向こう側。
静かに立つ、一人の男。
見慣れた――いや、今この場にいるはずのない人物。
「……瑠衣……くん……?」
声が、震えた。
名前を呼んだ自分自身が、一番信じられなかった。
幻覚?
死ぬ直前の、最後の妄想?
けれど、その声は、あまりにも現実的だった。
「嫌な予感がして来てみれば……一体これはどういう状況なんだ?」
淡々とした声音。
戦場に立つ者の、冷静な目。
間違いない。
これは夢じゃない。
(……助け、に……来た?)
その事実を理解した瞬間、
胸の奥に押し込めていた感情が、一気に溢れ出しそうになる。
怖かった。
本当は、死にたくなかった。
独りで、終わりたくなかった。
「なんで……ここに……?」
絞り出した声は、情けないほど弱かった。
喉がひりつき、息をするだけで胸が痛む。
「一旦後だ。今はとにかく逃げるぞ。流石にこの数は俺でも捌ききれん。勝手に死ぬなよ、絶対に生きろ。いいな?」
そう言うと、瑠衣は迷いなく距離を詰め、
真白の身体を軽々と抱き上げた。
お姫様抱っこ。
戦場には似つかわしくない体勢なのに、不思議と抵抗する気は起きなかった。
――いや。
正確には、抵抗できなかった。
五十嵐に叩き伏せられた身体は、もう言うことを聞かない。
腕に力を入れようとしても、感覚が鈍く、痺れたまま動かない。
脚に至っては、存在しているのかどうかすら曖昧だった。
(……ああ)
今さらのように、理解する。
自分はもう、立つことすらできないのだと。
戦えると思っていた。
まだやれると思っていた。
――それは、ただの思い込みだった。
瑠衣の腕の中で、真白は小さく身をすくめる。
衝撃が来るたびに、身体の奥で鈍い痛みが跳ねた。
(……重い、はずなのに)
そう思うのに、彼の腕は微動だにしない。
まるで、壊れかけの人形を扱うように、慎重で、確かだった。
初めてだった。
《《誰かに、こんなふうに守られるのは》》。
守る側でいることはあっても、
守られる側になるなんて、考えたこともなかった。
逃げていく視界の端で、幻影の群れが遠ざかっていく。
その光景を見ながら、真白は小さく息を吐いた。
肺に空気が入るだけで、痛い。
それでも――確かに、呼吸できている。
――生きている。
たったそれだけの事実が、
胸の奥を、ひどく熱くさせた。
そして、胸の奥で、別の感情が静かに芽吹く。
(……この人の前では)
無理をしなくてもいい。
強がらなくてもいい。
――そう、思ってしまった自分に、少しだけ戸惑いながらゆっくりと目を閉じた。




