黒羽真白の過去 その3
次の日の朝。
まだ陽も差しきらぬ時間帯。
世界はまだ眠っていて、廊下の空気は冷たく澄んでいる。
この時間が、黒羽真白は好きだった。
人の視線も、ざわめきも、憐れみも、蔑みもない。
ただ、ほうきを手に、誰にも気づかれずに床を掃くこの静けさだけが、彼女にとっての救いだった。
今日も、変わらぬ朝のはずだった。
廊下の先にあるあの場所。
老人がいつも通りにいて、何気ない会話を交わす、ただそれだけのはずだった。
しかし、その空気は唐突に破られた。
「ジジイが調子乗ってんじゃねぇよ!」
「掃除すらまともにできねぇとか、終わってんな!」
「なぁ、黒羽の身内気取りしてるから、こうなるんだろ?」
遠くから聞こえた、明らかに異質な声。
真白は思わず立ち止まった。
何かがおかしい。
この時間、この場所に、その声があること自体が異常だった。
いや――嫌な予感が、背筋を駆け上がった。
ゆっくりと、角を曲がる。
冷たい床が、妙に遠く感じた。
そして――見た。
そこには、信じたくない光景が広がっていた。
廊下の片隅。
倒れたモップとバケツ。散らばる水たまり。
その中心で、三人の男子生徒が、ひとりの老人を取り囲んでいた。
「ったく、年寄りのくせに口答えしてんじゃねぇよ!」
「おい、もっと強く蹴ったら起きるんじゃね? なぁ、試してみようぜ」
「黒羽のお気に入りがよぉ……なに特別扱いされてんだよ、ジジイ」
ドゴッ。
鈍い音が鳴った。
蹴り飛ばされた老人の身体が、廊下の壁に転がった。
――その瞬間、時間が止まったように感じた。
視界が震える。
耳鳴りのような音が鼓膜を打ち、手の中の竹箒が、ぎり、と軋む。
「へ……へへ……お前ら……こんな年寄りを、寄ってたかって……楽しいのか……?」
掠れきった老人の声は、廊下に溶けるように消えた。
誰の耳にも届かず、止める力も持たない。
その無力な抵抗を嘲るように、下卑た笑い声が重なった。
「口動かす元気があるなら、手ぇ動かせよ」
「掃除が仕事だろ? ほら、もっとちゃんとやれって」
「“黒羽のお気に入り”なんだろ? だったら尚更だよなぁ」
嘲笑とともに、容赦のない蹴りが降り注ぐ。
言葉は刃となり、暴力は遊びのように振るわれていた。
真白の視界が、一瞬、真っ白に染まる。
何かを考える余地もなかった。
思考の前に、本能が体を突き動かしていた。
「──やめてッ!!」
怒声と共に、竹箒を大きく振り抜いた。
鋭い風を裂く音が鳴り響く。
ボコッ!!
一人の男の横顔に、真横から叩きつけられた竹箒の柄が直撃した。
無様な悲鳴とともにその身体が宙を舞い、壁に叩きつけられる。
「て、てめ──がふっ……!」
振り返りざまに睨みつけてきたもう一人に、真白の膝が飛んだ。
脇腹に深く突き刺さり、折れるように身体が曲がる。
残った一人が後ずさりした。
「な、なんだよ……お、お前……⁉ やんのかよっ!?」
恐怖に引きつった声。
だが、それに答える声はなかった。
ただ、無言で、竹箒を片手に歩み寄る真白の姿。
その足取りは静かで、正確で、そして何より――一切の迷いがなかった。
ズガッ。
最後の一人が顔を押さえて倒れ込む。
石突きが、顎先を正確に打ち抜いた。
数秒の間に、すべてが終わっていた。
残されたのは、血まみれで床に転がる三人の生徒と、
そして、何も言わずに崩れ落ちた清掃員の老人だった。
「……大丈夫……⁉」
声が、わずかに裏返った。
真白の手から、竹箒が音もなく滑り落ちる。
床に転がるそれを、もう拾おうとも思わなかった。
駆け寄る、というより――吸い寄せられるように。
彼女は膝をつき、老人の肩にそっと手を添えた。
「……ねぇ……?」
返事はない。
指先に伝わる体温は、はっきりと“弱って”いた。
衣服の下で、身体がかすかに震えているのが分かる。
「……嘘、でしょ……?」
血に濡れた口元。
歪に腫れ上がった頬。
開いたまま焦点を失った、濁った瞳。
そこには――
毎朝、静かに微笑んでくれたあの穏やかな表情は、もうなかった。
老人の唇が、かすかに動いた。
何かを言おうとしたのかもしれない。
それとも、ただ呼吸しようとしただけかもしれない。
けれど――
言葉は、形になる前に途切れた。
ゆっくりと、まぶたが落ちる。
その動きはあまりに静かで、眠りにつくみたいで。
「……っ……」
喉が、ひくりと鳴った。
「……うそ……」
声が、掠れる。
「……ごめん……」
何に対する謝罪なのか、自分でも分からなかった。
来るのが遅れたことか。自分と関わったことか。あるいは守れなかったことか。
「……ごめんなさい……っ……」
言葉は震えた。
けれど――涙は出なかった。
目の奥が熱くなることも、胸が締めつけられることもない。
代わりに、胸の“奥底”で、何かが鳴った。
──ポキッ。
はっきりとした音だった。
幻聴でも、比喩でもない。
長い間、無理に支え続けていた芯が、耐えきれずに折れた明確な感触。
「ああ……」
真白は、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうか」
不思議なほど、頭が静かだった。
怒りも、悲しみも、焦りもない。
世界が、遠のいていく。
笑い声も、罵声も、床を踏み鳴らす音も、
まるで水の底から聞いているように、くぐもっていた。
どれだけ努力しても。
どれだけ才能を示しても。
どれだけ結果を出しても。
返ってきたのは、称賛ではない。
妬みと、嘲笑と、暴力だけだった。
その果てが、これだ。
真白は、理解してしまった。
正しくあることに、意味はない。
耐えることに、価値はない。
守ろうとするだけでは、何も守れない。
「……壊すしか、なかったんだ」
誰に向けた言葉でもない。
ただ、事実を口にしただけだった。
これまで、彼女は間違えないように生きてきた。
反論せず、耐え、努力し、結果を出し、
誰かを傷つけないように、必死に振る舞ってきた。
それでも――
世界は、何一つ変わらなかった。
正しくあろうとすればするほど、嘲られ、踏みにじられ、
黙っていればいるほど、相手は調子に乗り、暴力は、際限なくエスカレートしていった。
助けを呼んでも、誰も来なかった。
声を上げなければ、最初から存在しないものとして扱われた。
そして今。
彼女が唯一、心を許した相手が、床に倒れている。
――優しかったから。
――逆らわなかったから。
――壊さなかったから。
だから、壊された。
一方で。
真白が力を振るった瞬間、
世界は、はっきりと止まった。
嘲笑は消え、暴力は途切れ、あれほど騒がしかった廊下が嘘のように静まり返った。
その事実だけが、鮮明に残った。
「ああ……」
喉の奥から、静かな納得が零れる。
正しさでは、止まらない。
我慢では、守れない。
優しさは、踏み潰される。
この世界で終わらせるためには――壊す側に回るしか、なかった。
「……壊すしか、なかったんだ」
それは、言い訳ではない。
自分を正当化するための言葉でもない。
ただ――
この世界の仕組みを、理解してしまった者の、
あまりにも冷静な結論だった。
次の瞬間、喉の奥から、笑いが溢れた。
「は……はは……」
止まらない。
「あはははは……あはははははは……ッ……‼」
笑い声が、廊下に反響する。
けれどそれは、歓喜でも、快楽でもなかった。
壊して楽しい――そんな感情は、どこにもない。
そこにあったのは、ただひとつ。
理解してしまった者の、乾ききった笑いだった。
真白は、ゆっくりと身体を起こす。
膝についた埃を払うこともなく、背筋を伸ばし、静かに立ち上がった。
視線の先にあるのは、床に転がる生徒たち。
呻き声を上げ、身体を丸め、必死に後ずさるかつてのいじめっ子。
その顔に浮かぶのは、嘲笑でも余裕でもない。
紛れもない――恐怖だった。
それを見下ろす真白の瞳は、驚くほど穏やかだった。
「そっか……そっかそっか、簡単だったんだぁ♪」
語尾を少しだけ弾ませた声。
まるで、長年解けなかった問題の答えに辿り着いたかのような調子。
「壊せば、黙る」
「踏みつければ、止まる」
一つひとつ、確かめるように言葉を並べる。
「……ねぇ~?」
問いかけているようで、問いではない。
答えは、最初から分かっていた。
真白は、視線をゆっくりと巡らせる。
先ほどまで騒がしかった廊下。
笑い声も、罵声も、足音も――今はない。
あるのは、震える息遣いと、静まり返った空気だけ。
「わたしが壊したからぁ……」
ぽつりと、呟く。
「やっと、静かになった」
そこに迷いはなかった。
後悔も、戸惑いも、罪悪感もない。
ただ一つの“確信”。
ゆっくりと口角が上がる。
「なんで、もっと早く気づかなかったんだろう~?」
その笑みは、歪んでいるわけではない。
狂気を誇示するようなものでもない。
むしろ――
あまりにも理性的で、完成された表情だった。
かつて、黙って耐えていた少女。
傷ついても、声を上げず、ただ大人しく俯いていた存在。
その姿は、もうどこにもない。
ここで、黒羽真白は――
完全に壊れたのではない。
この世界の仕組みを学び、
自分がどう振る舞えば止められるのかを理解し、
そして――それを迷いなく選べる存在へと、
完成してしまったのだった。
◇◇◇
救護班が到着したのは、真白がいじめっ子達をボコボコにしてからわずか数分後の事だった。
騒ぎに気付いた生徒の一人が通報した事で発覚したのである。
担架が運び込まれ、老人が運ばれ、床の血が拭かれていく。
生徒たちも運ばれていく。呻き声が遠ざかる。
その間、真白は一度も取り乱さなかった。
「……黒羽真白だな?」
駆けつけた教官の一人が、低い声で言った。
状況を見れば分かる。
倒れているのが誰で、誰がこうしたのか。
真白は首を傾けた。
「ん~?わたしのことぉ?」
「君がやったのか?」
「そうで~す☆ きゃはははは!!」
否定する理由がない。
反省を装う必要もない。
教官の顔が引きつる。
「……退学処分レベルだぞ。分かっているのか」
真白は淡々と答えた。
「分かってま~す」
分かっている。
分かっているのに、胸が痛まない。
むしろ――頭の中が静かで、思考が冴えていく感覚があった。
◇◇◇
次の日、学園は異常なほど静かだった。
噂は広がるはずだった。
清掃員が重体。生徒が重傷。暴力事件。退学。
だが、不自然なくらいに情報が回らない。
翌日、教官も、生徒も、誰も事件の話をしなかった。
真白は瞬時に察した。上が動いたのだと。
黒羽家。
その名が持つ力。
それが学園の空気を、丸ごと握りつぶした。
数日後、父が学園に現れた。
「……問題は処理した」
真白に向けられた言葉は、それだけ。
謝罪でも、心配でもない。
「大丈夫か?」の一言すらなかった。
父の目は真白を見ていない。
見ているのは、黒羽家の評判と、体裁と、数字。
その瞬間、真白の中に残っていた最後の幻想が消えた。
それでも父は淡々と続けた。
「学園側には口止めをした。清掃員には十分な補償金を出す」
「……お前は、余計なことは喋るな」
「黒羽家の名を汚すな」
父の言葉が、淡々と続く。
「……今回の件は、なかったことになる」
「清掃員の件も、暴力沙汰も、すべて処理した」
「お前は――」
そこで、父の言葉が止まった。
真白が、笑っていたからだ。
それも、いつもの曖昧な微笑みではない。
はっきりと、楽しそうに。
「……あはっ」
父は眉をひそめた。
「何がおかしい」
「ううん。別にぃ?」
真白は首を傾け、くるりと一回転するように足を運ぶ。
まるで、退屈な話を聞き流している子どもの仕草だった。
「ただぁ……確認しただけ」
「あなたって、ほんとに最低なんだな~って☆」
空気が、ぴしりと固まった。
「……真白」
父の声に、わずかな苛立ちが混じる。
「ふざけるな。私はお前のために――」
「違う違う♪」
真白は、楽しそうに人差し指を振った。
「わたしのためじゃないよね?」
「な――!!」
「黒羽家のため」
「あなた自身のため」
「数字と評判のため」
一つひとつ、数えるように。
真白は言葉を紡いでいく。
「ねぇ。わたしのこと、一回でも心配した?」
「『怖かったか』って、聞いた?」
「『痛くなかったか』って、思った?」
父は答えない。
否、答えられなかった。
沈黙が、肯定だった。
真白は、ふっと息を吐いた。
「……そっかぁ」
そして、笑顔のまま、一歩近づく。
その距離が、父を不安にさせた。
理屈ではない。
本能が、近づくなと警告していた。
「ねぇ、お父さん?」
甘えるような声。
だが、その瞳には感情がなかった。
「わたし、もう家族ごっこ飽きちゃったな~」
「あなたみたいな最低な父親はぁ~」
真白は、にっこりと満面の笑みを浮かべる。
「いらなーい! きゃはっ☆」
次の瞬間。
父の喉に、ひやりとした感覚が走った。
いつの間にか、真白の指先が――
ほんの数センチ先にあった。
触れていない。
だが、触れられる距離だった。
「これ以上ぉ……」
声は軽い。
冗談みたいで、無邪気で。
「また何か言うようならぁ」
首を傾け、囁く。
「殺しちゃうぞっ☆ きゃはははは!!」
沈黙。
部屋の空気が、完全に凍りついた。
父は、初めて理解した。
目の前にいるのは
娘ではない。
教育も、説教も、命令も通じない存在。
自分の権力が、通用しない何か。
――逆らえば、間違いなく死ぬ。
その予感が、はっきりと胸に落ちた。
父は、一歩、下がった。
ほんのわずか。
だが、決定的な一歩。
真白は、それを見て満足そうに笑う。
「あ、引いた引いた~♪ 正解だよ、お父さん」
くるりと背を向ける。
「わたしぃ、もう黒羽家の“娘”じゃないから。使うなら、ちゃんと使ってね? 壊れた道具は、よく切れるからさぁ~!」
軽い足取りで、部屋を出ていく。
残された父は、立ち尽くしたまま動けなかった。
――黒羽家の名で、すべてを支配してきた男が。
初めて、“家”の中で敗北した瞬間だった。




