黒羽真白の過去 その2
真白へのいじめは、その後も変わらず続いていた。
無視、嘲笑、陰湿な悪意。
まるでそれが日常であるかのように、誰もが彼女を傷つけることに躊躇しなかった。
──だが、ある日。
そんな彼女の人生を一変させる“出来事”が起きる。
それは、初めて行われた剣術の基礎訓練。
竹刀を握った、その瞬間だった。
これまでの授業は座学が中心だったが、この日からは“戦える者”として認められるための第一歩。
素紋適格者を目指す者にとっては、まさに登竜門とも言える重要な訓練だ。
だが、生徒たちの多くが、すでに結論を決めてかかっていた。
「あの黒羽ってさ、親のコネで入ってきたんだろ?」
「どうせまともに竹刀も持てないって。せいぜい笑わせてくれよ」
ちらちらと向けられる、憐れみと侮蔑の混じった視線。
だが真白の顔には怒りも悲しみも浮かばなかった。
──ただ、静かに竹刀を構えた。
その動きは、ごく自然で、研ぎ澄まされたものだった。
「では、基本の構えから入る。全員、構えッ!」
号令とともに、生徒たちが一斉に竹刀を振り上げる。
──そのとき。
教官の眉がぴくりと動いた。
「……おい、お前。名前は?」
指さされたのは、真白だった。
「……黒羽真白です」
「その構え……どこで習った?」
「……特に何も習ってはいません。ただ、自分のやりやすい感覚で構えました」
ざわつく訓練場。
だがその中で、教官だけが驚愕していた。
《……理想に限りなく近い》
構えの角度、足の置き方、重心の配分。
どれをとっても完璧だった。いや、それ以上に――
美しかった。
まるで何千、何万回と繰り返してきたかのような、磨き抜かれた動作。
だが彼女が実際に竹刀を握るのは、この日が初めてだという。
「……打ち込みを見せてみろ。お前だけでいい」
「はい」
真白は返事をし、一歩、踏み込んだ。
空気が震えた。
足さばき、腰のひねり、視線の鋭さ。
すべてが一瞬にしてまとまり、竹刀が一直線に振り下ろされる。
バシュッッ!!
乾いた風切り音が響いた。
その瞬間、訓練場の空気が、変わった。
「……うそ……今の、マジ……?」
「何あれ……初めてって……ウソだろ?」
真白の打ち込みは、すべての“経験者”を圧倒していた。
打突、回避、反撃、型。
すべてが教本通り――いや、それ以上だった。
教官は言葉を失い、周囲の生徒たちはただ呆然と彼女を見ていた。
だが当の本人は、何も誇る様子を見せず、ただ黙って竹刀を納めた。
「──以上です」
その声音は、いつも通りの淡々としたものだった。
けれど、その場にいた誰もが、思わず背筋に冷たいものを感じていた。
……あれは、化け物だ
誰もが、そう思った。
黒羽真白――。
親の金で入っただけの落ちこぼれと嘲笑されてきた少女が、
初めてその“本当の才能”を見せつけた瞬間だった。
◇◇◇
――その後。
真白はSEUに入隊するための必須条件となる「素紋適格試験」を、一発で合格した。
この試験を初回で突破できる者は、学園内でも毎年1人いるかいないかという狭き門。
それはすなわち、正式な新人類としての資質を、国に認められたということだった。
だが──その快挙は、称賛ではなく新たな嫉妬と悪意を引き起こした。
「……は? あいつ、合格したって?」
「絶対、親が金でも積んだんだろ」
「てかマジ無理なんだけど……あの顔で新人類とか、笑えるんだけど」
どこかで誰かが笑う。
耳元で、背後で、机の隅で、靴箱の影で――
真白の噂は、まるで毒のように広がっていった。
廊下を歩けば、わざとらしく避けられ、
教室に入れば、椅子は倒され、机には落書きがされていた。
水筒の中身はすり替えられ、上履きは隠され、ノートは破かれた。
「調子に乗ってんじゃねぇよ、“落ちこぼれ”が」
「なんであんな奴が合格できんの? 気持ち悪……」
かつてのいじめっ子たちは、真白の“結果”そのものを認めようとしなかった。
努力の末に得た成果でさえも、まるで存在しなかったかのように否定し、貶めた。
その攻撃には、もはや“嫉妬”や“見下し”だけではない、
得体の知れない“恐れ”が混じっていた。
──「もし本当にあいつが“すごい”存在だったとしたら?」
それを認めてしまえば、自分たちの立場が脅かされる。
だからこそ、徹底的に嘲笑し、踏みつけ、否定しなければならなかった。
それでも、真白は反応を示さなかった。
殴られても、髪を引かれても、荷物を蹴られても、何も言い返さなかった。
「…………」
伏せられた瞳。無表情な横顔。
まるで、そこに“感情”というものが存在しないかのようだった。
だが――その“静けさ”こそが、彼らにとっては不気味であり、苛立ちの原因でもあった。
殴っても、貶しても、何の反応も返ってこない。
感情を潰してもいない。最初から“何もない”ように見えるその態度に、言いようのない恐怖すら感じていた。
だからこそ、彼らはいっそう執拗になっていく。
どうにかして、真白の心を乱してやろう。壊してやろう。そう思い始めたのだった。
そしてある日、彼らは“弱点”を見つけた。
──清掃員の老人。
毎朝、人目を避けるように交わされる小さな会話。
誰とも関わろうとしなかった黒羽が、唯一、自然な表情を見せる相手。
その姿を、廊下の陰から目撃した誰かが言った。
「……あいつ、ジジイと話してたぞ」
「マジ? ……へぇ、あんなのにだけは笑うんだ」
笑ってはいない。ただ、静かに頷いただけ。
だが、彼らにとってはそれだけで十分だった。
「……決まりだな。次は、あのジジイだ」
彼らは、黒羽真白のたったひとつの“心の拠り所”を突き止めたのだった。
◇◇
朝の誰もいない廊下。
まだ陽も昇りきらぬうちから、真白はほうきを手にしていた。
その隣では、学園の清掃員の老人が、いつものようにモップを動かしていた。
「なんだ、お前さんも手伝いに来たのか」
「……うん。家は落ち着かないから」
「そうか。じゃあ、ここを頼む」
「わかった」
静かに交わされる会話。
短く、素っ気ない言葉のやり取り――けれど、そこには確かな“温度”があった。
他者との距離を保ち、誰とも馴れ合わず、むしろ避けるように生きてきた真白。
だが、この老人とだけは、不思議と自然体で話すことができた。
それはきっと、彼に父性のようなものを感じ取っていたからかもしれない。
──真白は、物心ついた頃から“家庭”というものに温もりを感じたことがなかった。
思い出を辿っても、誰かに抱きしめられた記憶はない。
優しさも、思いやりも――一度たりとも与えられたことがなかった。
そこに自分の居場所があると思えたことなど、一度もなかったのだ。
ただ“黒羽家の血を引いている”という、それだけの理由で、
まるで“義務”のように屋根の下に置かれている――
そんな感覚だけが、常に胸にあった。
けれど――この老人だけは違った。
真白のことを「優秀な生徒」でも「出来損ないの令嬢」でもなく、
ただの一人の“人間”として接してくれた。
「背ぇ伸びたか?」
「手つき、前より慣れてきたな」
「……無理すんなよ。お前さん、目の下、クマ出てるぞ」
口数は少ないが、彼の言葉にはいつも気づかいがあった。
怒るわけでも、哀れむわけでもなく――ただ、静かに寄り添ってくれていた。
最初は戸惑った。
だが次第に、彼の言葉に心がふっと軽くなる瞬間があることに気づいた。
気がつけば、真白のほうから話しかけるようになっていた。
「今日の朝、桜の葉が落ちてた」
「……ここの廊下、ちょっと冷えるね」
それは他愛もない話。
でも、その“他愛もなさ”が、何より心地よかった。
――気づけば、老人と話す時間を“楽しみにしている”自分がいた。
それは恋ではない。
けれど、胸の奥がじんわりと温かくなる感覚だった。
あれはきっと、父に求めていたもの。
父に与えてほしかった優しさと、認めてほしかった存在価値。
それを、この老人は、ごく自然に、何の見返りもなく与えてくれた。
「ありがとう」
「……ん? 何がだ」
「なんとなく、そう言いたくなっただけ」
そんなやり取りも、いつしか真白の日常になっていた。
誰にも愛されなかった少女が、たった一人だけ心を許した存在――
それが、この清掃員の老人だった。




