黒羽真白の過去
――音が、消えた。
戦場の喧騒も、金属の軋む音も、血の匂いも。
すべてが一瞬で遠のき、世界は静まり返る。
代わりに、視界を満たしたのは――白。
眩しいほどの白。
だが、それは光ではなかった。
――雪だ。
降り積もる雪の中。
小さな少女が、暗い表情で一人で立っている。
まだ黒羽真白になる前の、狂気に染まる前の、ただの少女。
右半分が黒、左半分が白のツートンの髪。
雪のように白い肌。
左右で色の違う瞳。
彼女は、自分が他の子供たちと「違う」ことを、幼いながらに理解していた。
理解してしまっていた。
◇◇◇
学園の教室。
暖房が効いているはずなのに、彼女の席の周りだけが、やけに寒く感じる。
その寒さは、単なる気温の問題ではなかった。
この学園――正式名称:新人類育成特別教育機関・第七学園は、SEU直轄のエリート養成機関。
将来、新人類として最前線に立つことを期待された者たちを選別し、育成する場所だ。
新人類になるということは、国家の防衛を担う者として正式に認定されること。
それは同時に、社会的な栄誉であり、周囲から尊敬と羨望を集める“特権階級への昇格”を意味する。
だが、その光の裏にある影は深い。
真白の父――黒羽財閥の当主は、表向きには「娘を新人類に育てることで国に尽くす」と称していた。
実際には、高い殉職率を誇る最前線部隊に配属させ、“合法的に”娘を排除することが真の目的だった。
学園内には、新人類になることが確定している者、ほぼ確定している者、
そして、見込みがない者で明確なカーストが存在していた。
上位者たちはプライドと自信に満ち、教師たちも彼らに好意的だった。
下層に位置づけられた生徒は、無能と嘲られ、蔑まれた。
真白は――最底辺だった。
「……ねえ、あれ見て」
「またあの子だよ」
「左右で目の色違うの、気持ち悪くない?」
「髪の色も違うし……なんか不気味というか」
ひそひそとした声。
だが、それは決して小さくない。
わざと聞こえるように。
わざと、傷つくように。
真白は、俯いたまま何も言わない。
反論しない。
泣きもしない。
それが、いちばん“波風を立てない”と知っていたから。
だが――
波風を立てなくても、嵐はやって来る。
机の中に、腐った果物。
ロッカーの中に、汚れた上履き。
ノートには、黒く塗り潰された自分の名前。
「ばけもの」
「いなくなれ」
子供というのは非常に残酷だ。
最初は言葉だけだったものが、
やがて物理的な暴力へと変わっていくのに時間はかからなかった。
足を引っかけられ、転ばされる。
給食を床に落とされる。
背中を押され、笑われる。
それでも真白は、何も言わない。
言えば、もっと酷くなる。
言えば、「面倒な子」になる。
それを、彼女は本能的に理解していた。
教師は気づいていた。
だが、止めなかった。
「子供同士のことだから」
「そのうち落ち着くでしょう」
そう言って、見ないふりをした。
守るはずの大人が、誰一人として味方にならなかった。
◇◇◇
家に帰っても、そこに救いはない。
黒羽家は代々続く名門財閥一家。
その名を聞けば、誰もが羨むだろう。
しかし、真白にとって家はただ広く冷たい場所というだけ。
そこに温もりや安心感などはない。
母は、もういない。
真白を産んだ直後、持病の悪化で亡くなった。
父は、生きている。
だが、心はここにはない。
「……お父様」
そう呼びかけても、父は顔を上げない。
書類に目を落としたまま、淡々と告げる。
「その姿で、人前に出るな」
「黒羽の名に傷がつく」
それだけだった。
父は、息子が欲しかった。
跡取りとなる“正しい存在”を。
だが生まれたのは、娘である真白。
しかも、髪と目の色が左右で違う異様な容姿の娘。
父は、母が次の子を産めないとわかるとすぐに愛人を囲い、息子をもうけた。
黒羽健司。
彼こそが黒羽家の跡取りであり、正統な後継者だ。
真白と健司が顔を合わせることは、ほとんどなかった。
それは父の命令だった。
「接触するな」
「余計な影響を与えるな」
同じ血が流れているという事実すら、切り離され、否定された。
真白の世界には、父も、母も、兄弟も、存在しない。
◇◇◇
真白の世話をするのは、メイドたちだ。
だが、そこに温もりはない。
「お着替えを」
「お食事です」
「本日は以上です」
すべてが仕事の為であり、業務。
優しくされることはあっても、
愛されていると感じたことは、一度もなかった。
家にも居場所がない。
学園にも居場所がない。
どこに行っても、真白は“余分な存在”だった。
その事実が、幼い心を少しずつ削っていく。
――私は、ここにいてはいけないのかもしれない。
――私は、必要ないのかもしれない。
そう思うようになるのに、時間はかからなかった。
だが、それでも。
彼女は、まだ壊れてはいなかった。
怒りも、憎しみも、興味もまだ芽吹いていない。
ただ――静かに、世界から距離を取っていただけだ。
雪が降る。
白い世界の中で、小さな少女は一人、立ち尽くしている。
誰にも手を引かれず。
誰にも呼ばれず。
けれど、その胸の奥には、まだ小さな鼓動があった。
「それでも、生きている」という、かすかな実感。
そして、この走馬燈は――
やがて、彼女が“誰かのために生きる”という道を選ぶ、その起点へと繋がっていく。
だがそれは、まだ先の話だ。
白い世界が、ゆっくりと溶けていく。
雪景色の向こうに、別の光景が重なった。
◇◇◇
その日も、いつものようにいじめがはじまった。
転んだままの真白。
床に散らばった弁当。
教室に響く、子供たちの笑い声。
あの日の光景だ。
誰も助けなかった。
誰も声をかけなかった。
――だが、その日は違った。
廊下の奥。
モップを手にした、年老いた清掃員。
くたびれた作業着。皺だらけの手。背中の丸みと静かな目元。
名前も知らない。誰も気に留めない存在。
けれど、そのとき真白は、彼の視線だけをはっきりと感じた。
それは、“同情”ではなかった。
“憐れみ”でもなかった。
駆け寄ることはしない。
教師に告げることもしない。
ただ、静かに。
真白を見ていた。
その次の日も、また次の日も。
老人は真白の様子をじっと見ていた。
ある日。
気になった真白は、昼休みになると中庭へ向かうようになった。
人の寄りつかない、校舎裏のベンチ。
そこに、老人がいた。
何も言わず、隣に座り、黙々と煙草を吸う。
煙が空に溶けていく。
会話はなかった。
名前も知らない。
だが、不思議と怖くはなかった。
沈黙が、痛くなかった。
それは、真白にとって初めての経験だった。
何も求められない時間。
拒絶されない距離。
誰かといても、怖くなかった時間だった。
◇◇◇
ある日、老人がぽつりと口を開いた。
「……寒いな」
それだけだった。
真白は少しだけ頷いた。
「……はい」
それが、初めて交わした言葉だった。
しばらくして、老人はまた呟いた。
「俺はな、掃除の仕事しかできねえ」
真白は黙って聞いていた。
「でもな、それで誰かが転ばずに済むなら……それでいい」
老人は、真白を見なかった。
空を見ていた。
「立派じゃなくてもいい。
誰かの役に立つってだけで、人は生きていいんだ」
その横顔は、老いていて、皺だらけで、決して“美しく”はなかった。
けれどそこには、確かに“まっすぐな誇り”があった。
その言葉は、真白の胸の奥に、静かに沈んだ。
“誰かのために、自分がいる”。
その生き方が、初めて、真白の心に何かを灯した。
──私は、誰かの役に立てるのだろうか。
誰かに必要とされたいわけじゃない。
ただ、“私”という存在が、誰かの背中を支えることができたなら。
そう思えた瞬間、彼女の心に小さな芽が生まれた。
――役に立つ。
その言葉を、彼女は何度も反芻した。
愛されなくてもいい。
必要とされなくてもいい。
でも、誰かの役に立てるなら。
それなら、自分がここにいる理由になる。
この時真白はまだ壊れていなかった。
希望を持っていた。
――だが、その足元には、ゆっくりと確実にヒビが入り始めていた。




