狂気と愛の宴
静まり返った闘技場の中央に、黒羽真白はぼうっと立ち尽くしていた。
氷の破片と砕けた石が転がる空間に、ただ、冷たい夜の風だけが吹き抜けていた。
──それでも。
「あは……あははっ……♡」
その沈黙を破ったのは、狂気と快楽に染まった少女の笑い声だった。
膝をついていた黒羽が、ゆっくりと顔を上げる。
頬はほんのりと赤らみ、唇は小さく開き、瞳はうるんで震えていた。
「はぁぁぁ……♡ すごかった……ほんと、すっっっっごかったぁ……♡♡」
呟くように、息を吐く。
指先を頬に添え、胸元をぎゅっと抱きしめながら身悶えするその様子は――戦いの余韻ではなかった。
それは、恋に落ちた少女の顔だった。
「ふふっ……やっぱり……やっぱり、あの人だったんだぁ……♡」
戦場で、自分を本気にさせてくれる存在。
限界の先で、なお踏み込ませてくれた存在。
氷も毒も通じず、それでも真正面からぶつかってきて、自分を“叩き伏せて”くれた――あの漆黒の騎士。
「義影 瑠衣くん……」
小さな声で名前を呼び、ふわりと笑みを浮かべる。
「ついに見つけた……わたしの……ご主人様ぁ♡」
その瞬間、黒羽の全身から、ぞわりと鳥肌が立つほどの狂気が滲み出た。
両手を頬に添えたまま、体を左右に揺らし、くるくると回り始める。
「ご主人様ぁ……ご主人様ぁ……ふふふ♡ ねえ、どこにいるの? お迎えに来てくれるのよね?♡」
少女の声は完全に現実から浮いていた。
だが――。
「あれ……?」
踊るように一周して、ようやく周囲に目を向けた彼女は、そこで初めて“何かが足りない”ことに気づく。
「……ご主人様が、いない……?」
ぱちぱちと瞬きをし、首を傾げる。
もう一度、くるりと見回す。
「瑠衣くんは~~? お~~い♡ ごっしゅじんさまぁ~~~?」
どこか間延びした声で呼びかけながら、キョロキョロと辺りを見渡す。
その様子を、闘技場の壁際に佇む人物が静かに見ていた。
「義影 瑠衣なら、先程闘技場を後にされました」
眼鏡を直しながら、淡々と返したのは南野だった。
「えええええぇぇぇぇ!?!? なんでぇ!? いつのまにぃ!?!?」
黒羽の口がぱくぱくと開閉する。
「だってぇ、だってぇ、今すごくいいタイミングだったじゃん!? やっと見つけたのに! ご主人様に正式にご挨拶するタイミングだったのにぃ!!」
地団駄を踏むようにバタバタと足を動かし、髪をかきむしる。
「うぅぅぅ……ぐすっ……まさか、フラれた……!? うそ、やだ、私何か変なこと言った!? 言ってないよね!?」
「……落ち着いてください」
困ったように眼鏡の奥の目を細める南野に、黒羽は不機嫌そうに顔を向ける。
「……はぁ? ちょっと黙ってくれない? 今わたし、失恋しかけてて情緒ぐちゃぐちゃなの。わかるぅ?」
「申し訳ありませんが、黒羽上官にはここに留まっていただきます」
「……え?」
急に真顔になる黒羽。
「なんで?」
「命令です」
「……誰の?」
「それは、すぐにわかります」
南野は表情を崩さず、黒羽の前から一歩も動かない。
その態度に、黒羽の眉がぴくりと動く。
「ふぅん……ねえ」
その声が、さっきまでとは違っていた。
明らかに低く、冷たく――そして、危険だった。
「わたしね、気が短いの。だから邪魔されると……殺したくなるんだぁ♡」
キィン……
指先が、ゆっくりと武装刀の柄に触れた。
「どいてくれなきゃ殺しちゃうぞっ♡ きゃはっ☆」
くるんと笑いながら、足を半歩だけ進めたその瞬間――。
「私の部下を脅すのはやめてもらおうか、黒羽 真白」
重く、冷たい声が、場の空気を切り裂いた。
キィィン……
黒羽の動きが、ぴたりと止まる。
ゆっくりと振り返ると、そこには――鬼面の少女が立っていた。
SEU序列第4位。
《規律番》。
SEUの法を司り、秩序を保つ冷酷な番人――五十嵐 桃。
月明かりの下、その鬼の面が無表情に光っていた。
「……うぅわぁ。最悪」
黒羽は、めんどくさそうに盛大な舌打ちをした。
鬼面の少女――五十嵐 桃が姿を現した瞬間、
黒羽真白の狂気に満ちた空気は、まるで嘘のように引き締まった。
「……あらぁ、五十嵐さんじゃない。こんな時間にお出ましとは……まさか、夜の徘徊?」
黒羽は、あえてふざけた口調で言った。
そして、挑発するように笑みを浮かべる。
「一体どんな御用かしらぁ? ちなみに私はねぇ、五十嵐さんとは会いたくなかったなぁ~。だって空気が重くなるんだもん」
それでも、五十嵐は鬼面越しにぴくりとも動じなかった。
代わりに、鼻で小さく笑う。
「……私としても、貴様と顔を合わせるのは正直勘弁だったんだがな。命令とあらば仕方あるまい。私はそれを遂行しに来た」
「命令? ……また誰かの使いっ走りってことぉ?」
黒羽の口調が、徐々に棘を帯び始める。
「ふーん、で? どんな命令なの? まさか“私にお説教でもしろ”とか、そういう寒い展開じゃないわよね?」
次の瞬間。
ヒュッ!
風を裂いて、鋭い斬撃が黒羽の目前を掠めた。
「っ……!」
黒羽は即座に飛び退く。
反射的に武装刀の柄へと手を伸ばしながら、睨みつける。
「……ちょっとちょっと、今のは冗談じゃ済まないんだけどぉ?」
普段の調子を取り戻そうとするように笑うが、その笑顔は引きつっていた。
「いくらなんでも、いきなり斬りかかるとかマナー違反じゃなぁい? ねぇ、“規則”が大好きな五十嵐さん♪」
それでも、五十嵐はまったくブレない。
ただ、冷ややかに言い放つ。
「くく……ふふっ、ははは……どうやら貴様は“まだ”知らないようだな」
「……はぁ~?」
黒羽の目が細くなる。
「知らないって、何を?」
その瞬間――
「黒羽 真白。貴様は先日をもって、SEUを除名された」
――時が止まったような錯覚。
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
「……え?」
黒羽の口から、間の抜けた声が漏れる。
「ちょっと待って、今なんて……? 除名……?」
五十嵐はうなずくことなく、淡々と続けた。
「隊員への暴行、独断行動、危険度の高い共鳴技の私的使用、そして過去に複数の部隊員を“再起不能”に追い込んだ前例。更には今回の義影瑠衣への独断でのスラム異動……これらすべてを鑑みて、上層部は貴様を“組織として抱えるリスク”と判断した」
「っ……」
黒羽の顔から、少しずつ笑みが消えていく。
ゆっくりと足を引き、手が刀から離れる。
「……嘘よ。そんなの、冗談に決まってる」
「現実だ。受け入れろ」
「うるさい!! あははっ、そんなの聞いてないっ! 私、除名なんてされてないし! そんなのおかしいじゃない!」
感情が、噴き出す。
視線を泳がせながら、黒羽は南野の方へ振り返る。
「ねぇ、嘘だよね? 私、除名なんてされてないよね!?」
南野は、ただ静かに目を伏せた。
その“沈黙”こそが、何よりも雄弁だった。
「嘘……だよね……?」
声が、震えていた。
全身から一気に力が抜ける。
さっきまでの高揚感も、歓喜も、すべてが崩れ落ちる音が、耳の奥で鳴った気がした。
だが、悪夢はまだ終わらなかった。
五十嵐が、冷たい声で最後の通告を下す。
「――さらに、SEU規則 第六十八条。機密事項白紙特約に基づき――」
静かに、そしてはっきりと。
「――貴様を抹殺する」
その言葉は、まさに“死刑宣告”だった。
黒羽 真白の瞳から、光がすっと消えた。
『――貴様を抹殺する』
その言葉が発せられた瞬間、闘技場の空気が凍りついた。
黒羽真白は、まるで自分の鼓動が止まったかのように、全身から力が抜ける感覚を覚えていた。
――抹殺。
それは「除名」などという穏やかな言葉の次元ではない。
組織の手で“完全にこの世から消される”という意味だ。
「……は、ははっ……」
喉の奥で、空笑いが漏れた。
どこかわかっていたはずだった。
《《いつか自分がやりすぎた代償を払う日が来ることなど》》。
だが、それでもどこかで思っていた。
(私は、“特別”だから許される)
それが、SEUからの明確な“NO”によって叩き潰された。
が――。
「……なるほどね」
黒羽の肩が、ふっと震えた。
その背筋が、少しずつ立ち上がっていく。
「除名に……抹殺、ねぇ……」
次の瞬間、彼女はケラケラと笑い出した。
やがて、その笑いは狂気へと変わる。
「きゃはははっ……!! なにそれぇ! すっごく面白ぉ~~~い!! やっぱSEUって、サイテーッ♡」
その声に、一切の悲哀はなかった。
あるのはただ――“興奮”。
黒羽は、武装刀を静かに拾い上げると、くるりと柄を回して鞘に収めた。
「でぇ? 五十嵐さんは、どうするの?」
刃を交える気配を隠そうともせず、ニィッと笑みを浮かべる。
「さっきみたいに、私を殺す気なのかしらぁ? 一対一で? それとも――」
その瞬間、五十嵐が指を鳴らす。
「合図だ」
パチン――
その音と共に、闘技場の四方から人影が現れた。
無言で武装刀を手にした複数のSEU隊員たちが、闘技場を包囲する。
ざっ……ざっ……と足音が重なる。
気配は10人を超える。
全員が、黒羽を睨みつける目をしていた。
「わぁ~……これはまた盛大ねぇ」
黒羽はくるりと一回転し、ひらひらとスカートを揺らす。
「ねぇねぇ五十嵐さん、私ってそんなに嫌われてたのぉ?」
皮肉交じりに笑ってみせたが――
その視線は、彼女の目の前に立つ兵士の顔に留まった。
「……あら」
思い出した。
この顔。以前、自分の訓練で骨を粉砕した男だ。
他にもいる。顔を潰した者。戦場で置き去りにした者。自分の共鳴技の試験で“オモチャ”にした者。
隊員たちの表情には、怯えはなかった。
あったのは――敵意、怒り、そして復讐心。
(……なるほど、そういうこと)
ようやく、事の全容が見えてきた。
これは“粛清”ではない。
これは、“恨みの清算”だ。
「そっかそっかぁ。ねえ、五十嵐さん?」
黒羽は、ついに本気の声で言った。
「あなた、別に私を抹殺したいわけじゃないんでしょ~?」
「……」
「自分の手を汚さずに、私を“処理”したいだけ。違う?」
黒羽の口元が意地悪く歪む。
しかし、次の瞬間――
鬼面の奥から、くつくつと笑い声が漏れた。
「ふ……ふふふ、くくくく……」
それは低く、抑えきれない喜びに震えるような声音だった。
「フン。買いかぶるなよ、黒羽 真白。貴様のことなど、私は前々からずっと《《処刑したい》》と思っていた」
その言葉に、黒羽が目を瞬かせる。
「へぇ、意外ぃ~。てっきり無関心かと思ってた」
だが、五十嵐は一歩前に出て、語気を強めた。
「規律違反の常習者、暴力魔、独断専行、自己中心的。貴様の存在が、私の中の“規律”をどれだけ蝕んできたか――!」
声が、昂ぶっていた。
「だが、今までは上が黙認していた。止める術はなかった。それが……!」
五十嵐の両手が震える。喜びに、抑えきれぬ感情に。
「ついに、規則が貴様を処刑せよと認めた!」
その言葉は、まさに歓喜だった。
「これほど、嬉しいことがあるか!? ようやく正当な権限で、貴様をこの手で粛清できる!!」
五十嵐は高らかに叫ぶ。喜びを、怒りを、誇りを。
その姿は、まるで“正義を執行する処刑人”だった。
一方で、黒羽はその様子を見て――
「……なにそれ。思ったよりずっとタチ悪ぅ~い♡」
くるりと回ってスカートをひらりと翻し、笑った。
「まぁでも、そんなに私のこと嫌いだったなら、もっと早く言ってくれてよかったのにぃ? ちょっと傷ついちゃった♡」
そして、ゆっくりと武装刀に手をかける。
「で? そこの皆さん……」
周囲に立つSEU隊員たちを、鋭い目で順に見やる。
「今から《本気の私》と遊べるなんて、超ラッキーじゃない?」
にぃっと口角を上げ、舌をぺろりと出す。
そして――刀を抜く直前に、ふと空を見上げる。
「……待っててねぇ、ご主人様。この人たちを片付けてすぐに向かうからぁ」
その一言には、狂気と恋慕が同居していた。瑠衣に対してこれまで抱いていた殺意はそこにはない。
ただ、恋する少女の姿がそこにあった。
――キィィンッ!
武装刀が鞘から抜き放たれ、氷の粒が空気を裂く。
その瞬間、五十嵐が叫ぶ。
「全隊員、構え! 目標、黒羽 真白――殲滅ッ!!」
ざっ、と十数名のSEU隊員が一斉に動く。
各々の武装刀が戦闘態勢を取り、闘技場を包囲する。
だが、黒羽はまったく怯まない。
「きゃははっ!! 全員ぐちゃぐちゃに潰してあげる!!」
高らかに笑いながら、地を蹴る。
――夜の闘技場に、氷と狂気が舞い始めた。




